2018年7月20日金曜日

自我の呪いの外に出る


Voyant(見者)、アルチュール・ランボーに憧れるどんな人もランボーのように見えることを願っていると思う。しかし、語りかける人がいなかったら、どんな伝承、言い伝えも伝わってこない。ぶっきらぼうなランボーはどこまでもかっこいいかもしれないが、ぼくらが青年期の寂しさのなかで、キリキリ切れそうな頭で求めていたそんな詩は、本当にぼくらを救ったか?
ぼくらは、ディカプリオが英語で演じたランボーに夢中になる女友達を冷笑しなかっただろうか?それは、ホンモノではないと。でも、彼女らのなかにある共鳴までは、ぼくらは読みとろうとさえしなかったのではないか。
 見る者は概念が欲しい、言葉が欲しい、言い切りたい。はっきりさせたい。そんなことしかできないでいる。ぼくらにいっぱしの優しさがあったなら、ぼくらは何もかも失いはしなかっただろう。
 始めて書いた出来損ないの詩にびっくりしていた少女と、ぼくは大学受験の会場で鉢合わせ、睨まれた。あまりに余裕綽々だった風に見せていたが、危ない橋を渡っていたのかもしれない。たしかに第一志望には合格し、輝かしい日々が待っていた。けれども、ぼくの忘れ去ったはずの世界は、まだ出会ってもいない世界の底で歯ぎしりし、のたうち回っていたのかもしれない。
 少女は大人になっても、ぼくにやさしかった。誰にも愛されたことのないぼくの話を聞き、やさしく気遣ってくれていた。そういったメルヘン(物語)の写真、18歳だった二人を見る術はもう残っていない。ただ再会できずにいるのは、彼女がある病を発症し、それでも、未だにぼくを気遣っているような気さえしているのだ。ぼくは神に懺悔したことは数えるほどしかない。それだって、喉元を過ぎたロザリオは金平糖のようにだらしなく甘いのだ。
 実際、ぼくの懺悔は今や場所を持たない。キリストの呪いといわれる、「おまえはワシが来るまで、そこで待っていろよ」という寓話の言葉を、ぼくもまた聞いたのではないか?
 ぼくは思い出や、話し言葉のなかに傷んでいるのではないか。
 自我の呪いの外に出る。

אלי, אלי הרמ"א מדברי
תאני



アレックスさんが歌うドゥチュイムニィ


佐渡山豊さんの温かいライヴでの一幕。

1人で日本語の良心だけでなく、ウチナーぐちの叫びまで担ってきた、佐渡山豊さんの、ドゥチュイムニィという歌。この前、アレックスさんは、「日本語だけじゃない」とおっしゃっていたように思う。ともあれ、この歌を歌うフランスの方の存在はぼくらを明るくさせる。

2018年7月17日火曜日

これはもはやかなりまずい。

哲学を除霊しないと今後は生き残れない。もう中学3年生くらいから、毎日の学校の勉強などで麻痺しそうな頭をいなすために、哲学がそこにあったように思う。大学でも、つらいことから反転して哲学にのめりこみ、その正体を見極めようとフランスまで行って、さらにその洗脳の洗礼を受けた。
これはもはやかなりまずい。
通常の思考形式がとれなくなってきて、社会生活が送れなくなっているのだ。
この洗脳を今解かないと、この霊と一生共倒れだ。
医者が哲学はやめましょう、ご法度、と言ってから、働くことができ始めたが、なかなか洗脳は解けなかった。
未練、というより、除霊が必要。
哲学はありのままに見ることを妨げる。
妄想だ。
ソクラテスの処刑は必要だったのかもしれない。
そこまで考えます。
自分としては、今、哲学の霊を葬らねば、今後数年がまた台無しになりそう。
低い賃金で屁理屈を重ねることはできるかもしれないけど、本質的な不満を抱くことも忘れてしまうほど、哲学という麻薬は罪深い。
もう終わりにしないと。
まるで20年近く、悪い夢を見ていたようなものです。
洗脳を解きます。

2018年7月11日水曜日

災害時、政府に何を求めるか?





 政府は役に立つ。

 政府が本当に役に立たないなら糾弾する必要もない。実際に、政府が役に立たなかったら、災害の被害者が困るのだ。役に立たせる必要がある局面がある。あくまで、部分的には役に立たせないと。あとは政府が自己宣伝しようが、おだをあげようが、それは勝手だ。政府は役に立つ仕事をする義務がある。義務を遂行しない場合は信頼を失う。


 社会は太ってもいいが、政府は太ってはいけないのだ!


 日頃、社会は政府よりも大きな単位、場だと思い、そこで頭が止まっていた。政府が社会を牛耳るのに対し、社会は自律的に発展しなければと思っていた。それは間違いではないが、政府が社会の役に立たなければ政府は成り立たないのだ。この「寄生虫」は宿主である社会のために働く必要がある。それに対し、政府にあまりに寛容であったり、甘やかしたり、反対に怖がったり、様々なことを蔑ろにしすぎた。社会は防衛しなければならない。そして政府はパブリックとしてその走狗、走る犬にならなければ存在価値がない。社会、という母体にはそれだけの力が本来あるし、まず社会を防衛しなければならない。政府は走りながら考えろ!


 「千の遺体」

2018年7月10日火曜日

災害の広島で下着や食料を提供しているメーカーやスーパーに触発されて

 安全、安心は無いけど、生きている人たちのことをまず考えなければならない。国連や金持ちの高みからの援助ではなく、まず自分から降りて行くこと。それ以外に形がない。自分自身が援助を受けている人だけが他者の痛みが分かる。「助け合い」の美名のことは分からないが、できることは必ずある。
 昔学生のとき、新宿のダンボールのところで、1人の人に、「政治が悪いんだよな」とぼやいたら、その方がダンボールの周りを掃除し始めた。このことが自分の原点になっている。
 ぼやくだけなら学生のままだ。
 お金をもらいながら、働くことを通して社会貢献はできる。
 日頃、商品を売るだけに見えるメーカーやスーパーが、下着や食料品を市民に提供していると広島のニュースで読んだ。ふつうの人のふつうの心遣い。胸が熱くなる。
 ただ利潤を求めた冷血漢ではなかったのだ、あの人たちも!

2018年7月9日月曜日



   あなたを守る傘にはなれない
 傘を跳ね上げる虹になれたら
 空の下
 雨が降ってきた
 そしてまた 晴れ渡るとしても
 あなたの手には 嬰児の手が握られている
 ニジゴブドロ公国のはるか南
 言葉遊びやまじないを越えて
 付け文を今放つよ 
 クロネコもペリカンもだ!
 船荷証券とペイタックス
 もう二度と来ない秋を夢見て
 龍が四度 淵を巡った


哲学のヨーロッパ中心主義に関する緒言

 哲学はヨーロッパの文化である。
 そのため、哲学業界はやはりヨーロッパ中心で、アメリカもマーケットが大きいから人気。

 日本でのことを考えたい。まず学生は講義に出て、ゼミに入り、コツコツと欧米の書物を読んで行き、その翻訳から教わる。ヨーロッパの大学で哲学教授のポストは得られないが、日本学でならば、欧米両方でポストがある場合もある。そして、その「日本を捨てて」旅立った勇者が海外で博士号を得てポストを得ると、国内組との交流が始まるのである。この「豊かな」交流から、つながり、ネットワークができてきて、留学が可能となり、いわば、欧米のネットワークに日本人の流れが乗る形で、大学人としてのポストが欧米、日本のみならず、アジア新興地域でも約束され始める。
 たまに、アジアからの留学生がやがて博士号を英文学で取ると、スターダムに上がる。インドなど、英語に強い地域から欧米で、英文学の教授となると、日本からのお礼参りと日本への御幸の手筈が整うのだ。
 哲学とはヨーロッパ中心主義である。
 付け加えるべき点は多いが、まず割愛できるほど明白なことだ。

2018年7月8日日曜日

「哲学って何ですか?」にどう応えるか



今まで全く哲学に関心を抱いたことがない人に、「哲学って何ですか?」と聞かれたことで、捨てたはずの哲学が戻ってきた。
 小学6年生は、「善と悪ですか?」と。管理栄養士さんも「哲学って何ですか?」と同じ質問を期待を持ってしてくれた。
 ぼくにできたのは、哲学の現代社会における無力を説明することだけだった。小学生には、「考え方の道具を準備するだけで、善悪といった大きなことを説明することではないんだ」と。これが自分が30歳のときのこと。昨日は、科学と哲学の関係をベテランの栄養士さんに説明を試みた。
 正直、質問してくれる、ということに考えるきっかけがあった。哲学、自分への本当の需要があるとき、というか。
 これは本を黙々と30歳まで読み、35歳まで何となく過ごしていたときにはなかったこと。
 哲学を小学生、中学生にじかに解くことはできないんだけど、ほんの少しだけ、砂金のように授業にも哲学はあるんだな。その砂粒ほどの砂金を探して山に、川に分け入る人もいるけど、通常それは山師というんだ。
 ただひたすらに生きている人に、哲学は要らないと思うし、長嶋茂雄の野球哲学の方が数層倍も意味があるかもしれない。
 だとしても、崖に墜ちるための哲学に19歳から35歳までは、その道に自分は専心、「洗脳」されてきたわけだ。
 しかし、そのことは無駄ではないと、昨日、栄養士さんが言って下さった。
 何かに熱中した分だけ、そこで苦労をしたり、成長を確かめた分だけ、「人間力」といったものは高まるのではないか、というようなことを言って下さった。
 昨日はそういう話ができた。

2018年7月3日火曜日

Out of deep narrow shadow way! 田中伸輔さんへのオマージュ

 田中伸輔さんのディズニーの本を読んでいると、本当に何を置き忘れて生きているのか、前に進む、という決まり文句よりも、regrets, 何かを惜しむことや悔やむことの大切さを本当に忘れていたことを思い出します。
 照屋林助さんという沖縄の漫談師さんが、「もうとっくに忘れているのに思い出せない人」というようなおもしろい表現を使っていたのを思い出します。 佐渡山さんの歌をライヴで聴いていて、打ちのめされたような黒い塊に自分が墜ちていくのを感じていましたが、今は、下降している、という感覚はもう不思議と消えました。 やはり人間は絶望するために生きているのではない、顔を上げて、心の痛み、悔いを忘れない方が生きた心地がするのでしょう。 真の大人になってこそ、子どもに語りかけられるのでしょう。子どもっぽいから、小粋な大人なんじゃなくて。





Deep narrow shadow way. I'm out of there by now. In grace of friends, I face back to the past and then to the future again. I never regretted anything in my life because it doesn’t help. But now, reading the Disney picture books written by a Japanese storyteller, I’m not falling into the depth of the trench. Not anymore of anything.

2018年7月2日月曜日

ありがとう


  ありがとう
 カムサハムニダ
 ありがとう
 バヤラッラー
 ありがとう
 コマウォ
 ありがとう
 サンキュー
 ありがとう
 メルシィ
 ありがとう
 シュクラン
 ありがとう
 ティシュクレテデウム
 ありがとう
 シェシェ
 ありがとう


そのかそけき声に-佐渡山豊さんのやさしさ-




 佐渡山さんに話しかけるとき、ぼくは上気しているし、そういうときの佐渡山さんの声は聞こえないほどにあいまいな、優しさといっていいような、羞じらいさえあるようなそういう小さな声です。
 ライヴとはまたひと味ちがった佐渡山さん。
 そのかそけき声に、理由じゃない全身の肯定を、やさしさを感じます。
  あるいは、背中をトントンと叩いて声をかけて下さる。
 
 佐渡山さん、ありがとう。にへーでーびる!
 
 サバニという歌も「がんばれ、がんばれ」と励まして下さる。
 佐渡山さんとファンの温かい交流のなかで、ぼくはこの7年くらいたしかなしあわせのときを感じ、過ごしてきました。
 小さな窓やその灯りが輝いているいつもの場所、確かな時があります。



写真は佐渡山豊ファンサイトからお借りしました。
佐渡山豊ファンサイト(フェイスブック) 

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