2018年6月4日月曜日

労働市場の光と闇



労働市場の光と闇、というか、そもそも表の市場には出てこない広大な領域、家事などもあるわけで、全てが市場化すればいいわけではないだろう。その点、「家事に賃金を」という主張が通らないにはそれなりのわけがあり、搾取だけではない。反面、搾取のない労働関係はないと思う。
しかし、いわゆるスウェット・ショップと言われる賃金なきに等しい労働環境が他のインセンティブ(家庭など)を軸に行われているとしたらどうだろう。
いや、むしろ問題なのは会社や国家による家族主義的労働による搾取というか、日本社会、社会契約論ではないのではないか、という気がしてくる。ぼくは無駄な会社での時間というのは耐えられないので速攻帰るけども、同時にそれは会社の家族的時間からは外れていることでもあると感じる。あくまで外様なのだ。この点、派遣社員などは、会社社員とは一線を画した孤独感というのはあるのではないか?
また市場の闇の部分に光を当てることは得策ではないが、いわゆる裏社会は裏社会として自立しているのが望ましいとは思う。全てを国家の下に、ではなく、言ってみれば、課税対象の限度外の社会もまたあるのでないと、そういった隠れ里、抜け道からの神出鬼没が不可能になる。江戸時代の開墾やそれ以前の律令制度、王土王民、の外、外部もまた重要な役割を持つのではないだろうか。音楽、笑い、キロンボ、暴力、性の放縦、全部、「堅実な」愛には見放されたエデンの東だ。
この外部社会との往還として芸能もあり、その中間に位置する人間、そこで生きる路上の民もいるのだろう。この辺、よく分からないが、闇は闇として確かに夜は闇になるのでないと、煌々と灯りがつくばかりが能ではない。狭められた「在所」では被差別も激化する。この辺は全て推測でしかないのだが、王土の外にも日本には場所がある、というのは楽観的過ぎるにしても、心のなかに「在所」を持て、とぼくは言いたい。
つまりは征服されざる美としての芸能が一つある。今、美も笑いも全て統合されてしまい、鬱屈している。サッカーでさえ、本当に楽しいか?
海外にはもっと、この「在所」、ゲットーも多いかもしれない。闇から光に引きずり出されたモグラたちがいつまでも活発に動けないのは何となく感じている。しかし、光は闇を放ってはおかない。
やがて夜が来る、魑魅魍魎の時間だ。街頭の灯りが消えれば人の心もさざめく。王、は闇をどう見るのか、ということが気になっている。光、皇は何を見、何を考えているのか。

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