2018年6月16日土曜日

ありがとう、とごめんね


 
   感謝というのは、こころから感じているときもあれば、オートメーションで出てくることばでもある。でも、それは、「ありがとう」とふつうに言えるこころがないと出てこないと思う。人倫の基本というか、挨拶だ。もし、人生のカギが一つあるとすれば、それは感謝するこころではないか、という気がする。食べ物と作ってくれた人、お百姓さん、精肉業者、いただく命、植物に感謝というこころはオートメーションになる前の日本人のことばとこころにはあるはずで、それがコンビニの時代になろうが、「ありがとうございました」が言えないと始まらない。
 私はただ言語の役割、コミュニケーションの原理について少し考察したいと思っている。
 もう一つ、フランスから帰って疑問だったのは、「ごめんね」を使うときのタイミングだ。
フランス語、英語にも、Excuse me!に当たることばはあるし、I’m sorry,とは少し違うのだろうが、この辺の微妙なニュアンス、英語についてもよく分からない。I beg your pardon,フランス語の、pardon!も「ごめんね」に近い気がする。でも差異もある。
 日本の「ごめんね」は、ふいにやってくる。これはやはり、挨拶に近い。何でもないときに、突然、謝られると、なんで?と思っていたが、栃木弁のお笑いグループの、「ごめんね、ごめんねー」というギャグにあるように、突然、笑いのように、「ごめんね」はやってくるのだ。
 もしかしたら欧米では、謝るときに、(私があなたの前を横切るから)エクスキューズミー!、(私がうまく聴き取れなかったから)、すみません、(もう一度お願いします)、といつも、理由があるのではないか?理性の言語である。 それに比して、日本語のごめんね、には理由も希薄で、さらに主語すら控えめな表現ではないか。私を虚しくする、謙虚である、というのが、ごめんねのこころかもしれない。
 しかし、先日、スマナサーラというお坊さんの本を読んでいて、少し考えたのは、もしはっきりと、人間は、はかない、虚しいものであると、知っている、悟っているなら、謙虚はオートメーションになるか、あるいは、謙虚の無意味を知るのか、スマナサーラの考えを全部分かったわけではないが、こころか理解があれば、「謙虚でありなさい」という訓示も消えるということだろうか?と思った。
 天上天下唯我独尊、なんて暴走族のラクガキか、釈迦しか言えないにせよ、また謙虚は当然であるとしても、日本人が己を虚しく、主語を欠く、「ごめんね」の精神は、「菫ほど小さきものに生まれたし」という漱石の句を思い起こさせた。
 あるいは、謝罪について、「たいへん、申し訳ありませんでした」これも日本の大きな文化の問いで、これはサラリーマン、社会人がテレビで公式謝罪会見などをしている。
 これはオートメーションであり、昔、極楽とんぼというお笑いコンビのラジオで、謝罪はギャグ企画にまでなっていたが、謝罪も大きな文化だろう。
 また「太平洋戦争」とか「侵略戦争」の謝罪となると、謝罪は賠償金だと、身を固くしてしまう。己を虚しくするのは、少なくとも、政治、では不可能だということだろうか?また、賠償金は要らないと言われれば、小躍りして相手を讃える、これはオートメーションで金銭化された負の側面だろうか。
 I’m sorry,と謝ったら財布だせ、だって謝ったろ、と日本人は欧米人などに言われ続けて、自分の「ごめんね」を損なわれてきたのかもしれない。欧米ではおそらく、謝罪は責任の問い、理由があってのことだろう。
 しかし、日本のこころ、というのは、己を小さくすることで深化した、主語を消すことで人口過密、自然をなるだけ破壊せずに生きようとしてきたのではないか。
 これは実際、今の日本の山河、原発等を考えないと分からないが、「ごめんね」が社会契約になり、「申し訳ありませんでした」に変化しても、己を消そうというこころには、どこかこころを打たれるものがある。
 今思うに、自分が入院休養していたときに、何気なく、話しかけるだけでも、ヘルパーさんのおっしゃっていた、「ごめんね」という前置きが、初めは(なんで?)と疑問を、理由を尋ねたかもしれないが、今ではその「ごめんね」が一つぼくのこころを軽くしたのかもしれない、と思う。「ごめんね」に治癒もあるのだろう。

 ありがとう、も理由より前にあるものかもしれない。It is rare and uncertain for you to do this for me,(thank you),がありがとうであるはずだ。確かでないものに確かなものを見つける努力、それへの感謝が、ありがとう、だろうか。
 「さよなら、そしてありがとう、時が過ぎて行く」という歌詞がBEGINの歌にあったが、さようなら、もIf it’s the way it should be(good bye)だと思う。決して語源論の罠に陥ろうというのではない。
 人に感謝されるとうれしい、このことの理由を散策しないでもいい。感謝とはお互いに感じ合うもので、パス交換、サッカーにも野球にも感じ合う、ありがとう、はある。
 人間、相互連関性があることへの驚きと感謝、これが、おぎゃあ、などいろんな人間の音の意識化であり、意味を持たせるなら、ありがとう、そして、次に、ごめんね、がよく意味を説明しうるのかもしれない。
 責任主体がいないことは、責任回避ではない。
 先日、平井玄さんに、「社会の零度」ということの意味を尋ねたら、万人の万人による闘争も、リヴァイアサンという怪物もフィクション、妄想ではないか、社会の零度、というのはそういうことだと教えて下さった。空想のバケモノと阿鼻叫喚を想定するから社会契約論に至るのが西洋だとしたら、市民、市民権を想定することなく、小さき者としてフィクション、神を生きない日本も一つの道を示すのではないだろうか。

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