2018年6月12日火曜日

神秘論① 弱体化した人間 -神秘の復権と理性の支配の間で-



  古代、神秘が力を持っているとされた律令制以前の頃、人間は神秘体験を通じて世界を支配しうるとされていたのだろう。それがやがて教育、理性によってまだしも民主化され、理屈で追えるようになると、人間は強い者(支配する者、王者、預言者)から、弱い葦、人間たちに堕落したのだ。
 
「或ハ妄ニ触レテ走ラント欲シ、或ハ自ラ高ク賢シトシ、聖神ト称スル者ナリ」(『伊呂波字類抄』)

 これはかつて神がかりと呼ばれた神秘的な力が、単に病気として治療の対象になった後の言葉だ。百科全書的、体系的、全体からの視点が、神秘を逸脱、病として説明、治癒してしまう。あるいは、社会からそのまま抹消、抹殺されてしまう。ここにこそ、人間の律令、法令、即ち理性の下における「弱さ」の発見、言い換えれば狂気、神秘という「強さ」の敗北がある。
 つまり人間は何もできない、世界の、自然の森羅万象を支配できないという発見こそが、法則、法を準備し、行政を執行する官僚社会を準備したのではないか。政治家とは、もともと神秘、人格、カリスマの領域にあったが、今では官僚出身者の理性に取って変わられようとしているのではないだろうか。即ち、弱い人間、による支配へと。
 だが、民衆において、つまり被支配者において重要なのは、支配されないからといって、支配するのではないこと。つまり、ノンポリ、隠者、無党派、あるいは選挙権のない人、つまり選挙権を行使しない、できないからといって、支配を免れるわけではない、そして当然、支配の側にまわれるわけでもないということだ。当たり前過ぎることだからこそ、抵抗が大事なのだ。例として、テレビを観ている傍観者の発明、弱い大衆の発明が近代、現代統治の要であることを、もう一度意識に上らせたいのだ。
 傍観者、隠者、視聴者であることは、支配者、政治家、製作者(メディア)であることにはならない。お客様は神様、有権者は主権者、全部バカにするカラクリではないかと疑いたくなる。敬して遠ざく、くさい物にはふたを、我関せず、そういう態度が常態になった弱い民主主義…これは全ての運命にも打ち勝とうとしたオイディプスの失墜、目を突いて盲目となる、弱者として傍観する態度への失墜ではないだろうか。
 繰り返すが、支配しないからといって、支配できるわけではない。この弱い民主主義、日本の民主主義の行く末を傍観するのと、凝視することの違いで、物事は変わってくるのかもしれない。

また、そこに明確な線引きをして、今一度、神秘、神の到来を夢見る、なんて言っていいのだろうか?科学と民主主義というのはまた別の大きなテーマではあるが、政治にも科学にも倫理はない。倫理のない所に神秘もまたないのではないか。仮に神秘が倫理を準備するとしたら…
 
「諦めが肝心である」、「お前は弱い」、「当たり前だろ」、という諦念による統治、律令制に抗して!少なくとも、諦めたところにもう愛はない、愛の可能性もない。その一点からだけでも、ぼくは抵抗を試みたいと思うのだ。愛は見せかけであり、まやかしであり、過つものかもしれないが、愛は酒であり、誤謬であり、永遠である限りにおいての永遠に過ぎないとしても、それだからこそ、ぼくは何かをそこに期待するのだ。
 愛がなくなったら、全てはない。全てがある以上、愛もまたある。それだけのシンプルなことを忘れずに、「律令、法、理性」と「狂気、神秘」との折り合い、調和を図る。それがもしかしたら、天皇制かもしれない。それが日本政治の性格を決め、弱者が弱者として主権者であり、投票者であり、代表を立法府に送り込む民主主義の基本を見失わせているとしても、天皇による支配ではなく、天皇法律による支配、即ち象徴天皇制、つまり神秘のシステムによる管理が行われている。そこでは言説は組み上げられた機械となり、もはや詩ではない、流れや音ではなく、論文、論考、あるいは法文である。そうである分、ますます歌は、伝え聴かれる歌は貴重だという思いを強くする。
 「人はそれぞれ楽園を持ち、天国を持っている」、とフランス語のラップでは歌っている。
 ポケット一杯の希望を、神秘を持って街を歩きたい。神秘は人間を主権者にする?王権神授説か、はたまた主権在民の話か?そこにいるのは王者なのか、それとも隠者なのか、そういった夢想を抱きながら東京を散歩したい。
 

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