2018年6月11日月曜日

音楽一般論の試み



   音楽にも飛翔と着地がある。
 どの音楽にも飛び立つ鳥がいる。舞い上がり、旋回し、あるいは悠々と舞い降りる鳥。
 そして舞台、背景、伴奏もいるのである。
 全ての人が主体でもない。
 また完全な客体でもない。
 ジャズの帝王といわれたマイルスが響き合うのではなく、舞台、背景を舞い上がり、その飛翔を描くとき、それは完全な抽象、線ではありえない。孤独、個体というのも違うだろう。
 疑問符を解くのに、一生以上時間がかかるとき、世代、つまりはancestors, descendents, 祖先と子孫がそこにいるのだ。
 
 気流に乗る鳥。
それでも、いつかは舞い降りていく枝、ターミナルが必要だ。ジャンクションを越えて、さらに進んでも、終着点がないと、街に、村に、宿に、我が家に安らうことはできない。
 「百代の過客」と芭蕉は表現した。
 終わりのない旅には、昼寝の軒先があってもいいと誰かはいう。
 道を急げ、と釈迦はいう。
 「急いては事をし損じる」という諺もある。
 全て、は言語ではない。
 言語は、trace,轍に過ぎない。
 
 誰かの過ぎ去った跡の轍に、鳥が舞い降りる。
 どうも飛び続ける鳥はいないし、そこが着地点だ。
 テンション、張りがあり、自分の心と分かち合える音楽もそこにある。
 夜と眠りのない生き物はいないが、その残余、裏側としての不夜城、キロンボ(悪処)にも音、音楽は流れる。
 Humanity,人間であること、その飛翔と着地点、その軌跡が音楽であり、音楽は映し、描き出す。それが音楽ではないか。

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