2018年6月26日火曜日

30代


 人を褒めるほど偉くない
 生きるほど強くない
 詩なんて書けない
 産声さえ上げられない
 誰にも助けを求められない
 
20歳までは人をけなし
 傲慢で
 ノートに本から書き写し
 黙って鍋蓋を破壊し
 つらいとは決して言わず
 ずっと、じっと準備してきたぼくの将来。
 そこまで大事にしてきた一生は
 輝かしい仕事の30代を招かなかった。
 ずっと30代のために準備してきたのに
 15歳の頃からそう思ってきたのに
 30代は残り後2年。
 35歳には彼女と結婚しようと思っていた。
 20歳のときパリで一度泣いた。
 35歳には全てを始めようと
 ずっと準備してきたのに。
 
  時計仕掛けの夢は
 今日もう終わるんだ
 思惑は国家の奴隷。
 里程標、10m、50m、100m…
 人それぞれ、つかれ、そして眠い頃
 永久不滅ポイントはサラブレッドの従者
 クガクツナン

2018年6月23日土曜日

『歎異抄』部分英訳 From Tanisho, Buddhist text book by Shinran


“Each of you have passed the borders of tens of countries, never cared of your own life, you came over. That is to ask and hear the way to the heaven without pain. Thus, if you consider that I know any other particular way besides praying with spell, if you are longing for any words and law, that is all mistake. If you think that way, there are many scholars near the capital, you should meet and ask them. For Shinran, just praying to Amida to be saved, that is what I heard from good man, there is no other way beside believing. Praying with spell, whether it is the way to heaven or is it the way to hell, I don’t know, in sum total. Even if my teacher Hounen lied to me and I go to hell by praying with spell, I should not regret it. The reason is that if I were a person who worked hard with other ways besides praying and come to the perfect knowledge, then I could regret by going to hell by praying with spell. But for me, every way to paradise is not possible, so I surely stay in hell. …”(From Tanisho, Buddhist text book by Shinran.)

佐渡山豊、名盤!リマスタリングCD「空っぽな空から」発売です! 





今、聴いていますが、音に深みがあります。リマスタリングって、こんなに素晴らしいのか!と。50歳の頃の佐渡山さん、それからさらにどんどん元気に、前人未到の深さに達するようで、全ての人を讃え、勇気づける人。まだまだ、もっともっと今後の活躍が期待できる、そういう里程標、石敢當のようなアルバムです。ぜひ、聴いてみてください。佐渡山さんの入門というか、最初に聴くアルバムとしてもいいと思います。トランジスタレコードから発売です!

http://transistor-record.com/archives/5278/



表紙の絵を眺める、詩集「空っぽな空から」

詩集『空っぽな空から』の表紙を見てみよう。すごく説明的で詩的な宇宙観の図が、絵が描かれている。正直、意味が分からないところがあっても全体的に納得してしまう、自分がもし図を描いたなら、LOVEの領域のヒューマン・チェーンというか手をつないだ人々はいるだろうか、とか、いろいろ感じながら眺めることもできる。だいたい、佐渡山さんの詩も似たようなイメージがあるのは気のせいではないと思う。つまり、根が設計的というか、丁寧に世界観を言葉で織り込んで行く、-隣の部屋の子どもたちが遊んでカベをトントコ言わせる、カベにボールでもぶつけているのか、足踏みの音もけっこうする-そういう自由さがこの絵にはあるんじゃないだろうか?私、はピラミッドの上で両手を拡げている、すごい世界の中心だ!そういう無邪気な歓喜がある。それでいて世界の底には水の墓場さえあるし、地球は太陽の表面に影のように交わっている。はっきり言ってかなり謎だけど、押しつけがましくないこどもっぽさとでも言ったらいいのか、自由な発想がそこにはある。それでいて、しっかり世界を描き出しているのだ。まるでこの絵は、「アメリカ、アメリカ」のグランド・キャニオンの描写ではないか、という気がしてくる。1967.6.20という数字から、2013.03.00の日付までぶれていない世界を描いている。つまり、アルバム「つむじ風」まで通暁した、「光の作ってくれた、たった一本の、路」が伸びている。
 筆者は何も予言的にこの絵を眺めたいわけではないし、精神分析、なんてものは学んだこともない、どちらかというと、うさんくさい気がしているくらいだ。ただ詩には詩で応えられるときもあれば、散文で追いかけるときもある。これは今までにない詩論なのだから、また裏側からシャウトとしての歌も論じなければならないから、いろんな道具立てがいる上に、それらはにこやかに調和しなければ。存外、広域な、雨の領域、アイスティー号の落下軌跡、太陽にはちゃっかり天使の入り口があり、風の領域が宇宙空間に漂っている。
 こうやって、「空っぽな空から」の見取り図、宇宙観を書き出してみた。「すごい!グランド・キャニオンだ!」、アメリカの旅で佐渡山さんが見られた世界がこの絵のなかに凝縮されているかもしれない。「白い狼のヨセミテを通って、サンフランシスコに入るんだ」、と言われても土地勘のない自分には地図を広げるか、この絵を観るしかない。基本的に佐渡山さんはやんちゃなんだろうな、と思う。それでいて、何かが欠けているとも感じている。空は空っぽなのだ、「相変わらずの朝が来て、…相変わらずの夜が!」(ヒマワリ)の世界なのだ。沖縄というところは暮らすとけっこう時間を持て余すのだろうか、筆者の幼少期の豪州体験では、けっこう太陽が燦々と閑だった気がする。そこは東京ではない、少なくとも。東京は宇宙の中にあるのかな?ピラミッドの頂点と地球までを一辺とする正三角形上の軌道に、一体どれだけの人間が連なっているのだろうか?好奇心は遊ぶ。こういう風に音楽も作っていったら、苦界もキャンバスに溶けてしまう、不気味ではない太陽が変にマンガチックだ。そうだ、これはマンガなのだ、浪漫なのだ。けっこうまじめに、設計図的に見入ってしまうが、詩集のイメージはこんな感じでいいだろうか。なんだかんだ言っても、ファンのなかでもっとも若造な部類の筆者が描けるのはこれくらいである。

太陽の黒点としての死を見つめる-グッドストックTokyo 佐渡山豊ライヴ-


3ヶ月家に居た。旅行のない休暇は、苦行だった。家で、「ありがとう」論を書こうと思っていた。昨日のライヴでシャレにならない程、自分の底を噛みしめた。
 しあわせではないと思っていたら、隣の潤さんが肩を揉んでくれて、深い心地の良さ、温かみのなかで心もほぐれた。

 テクニカル、テクネーなこわばった機械的反応、それを少しずつ感情にできるには、まずこわばった心と体を解放しなければならない。こういうリハビリ、昨日は目黒駅で人とぶつかって、謝ったら押し返された。そのことで少し落ち込んでさえいた。
 何て世知辛い目黒のサンマよ!
 東工大前の古本屋で、微分・積分の教科書を見た。一行も分からないで気落ち。寝不足の悪いサイクルからの蘇生として、今朝の夢の中の涙もあった。
 感情はニュースでズタズタだ。
 死が悲しいことを見ずに、忘れようとしている。
 滅却、ゴミ収集車、魂のサイクル業者。
 自分には豆カレーを食べる程の賃金もないのだと、寂しく街路を歩く。
 味をしめたサバの缶詰め、「サバを焼いて生きのびる」。
 佐渡山さんの「サバニ」(=小舟)という歌を聴き、死んだ魂も帰ってき始めた。
 マージナルに間引きされた親鸞の移住者たち、
 親鸞は子どもを連れたハメルーンの笛吹か?
 人買いの話を本で読んでいた、『差別その根源を問う』という古い朝日選書。
 やっと少し体がこの世に還ってきた。
 子どもを捨てるポストからは小銭のお釣りも出ないのに、
 育てられなくて、死んでいく赤子達もいる。ナンセンスの極み。
 これは善悪の話ではない。
 死刑は誰も救わない。
 反国家ではなく反死刑だってあればいいし。
 歌に手を合わせる。豚に真珠。
 もういいじゃないか、豆カレーのことは!
 太りすぎのグルメレポーター、テレビを見なくなったので、今、何をしているのかも知らない。
 情報遮断、情緒の硬直。

 潤さんに琉球王朝の官職、三司官、雲上(うんじょう)などについて聞いた。
 歌は歌自体であり、歌以外のなにものでもない。
 300年を越えた「かぎやで風」池城安基。

 古典を生きる。今を生きる。照屋林助も知念ウシさんも佐渡山さんの中にはいるだろう。
 なおざりにできない言葉をひねり出して涙する。
 塩からい涙を流す。
 死の一点が悲しい。2点目はネイマール。
 茶化しても点は点だ。サッカーだけの話じゃない。
 
 太陽の黒点としての死。
 それはやがてこの目で見なければならない。 

2018年6月16日土曜日

ありがとう、とごめんね


 
   感謝というのは、こころから感じているときもあれば、オートメーションで出てくることばでもある。でも、それは、「ありがとう」とふつうに言えるこころがないと出てこないと思う。人倫の基本というか、挨拶だ。もし、人生のカギが一つあるとすれば、それは感謝するこころではないか、という気がする。食べ物と作ってくれた人、お百姓さん、精肉業者、いただく命、植物に感謝というこころはオートメーションになる前の日本人のことばとこころにはあるはずで、それがコンビニの時代になろうが、「ありがとうございました」が言えないと始まらない。
 私はただ言語の役割、コミュニケーションの原理について少し考察したいと思っている。
 もう一つ、フランスから帰って疑問だったのは、「ごめんね」を使うときのタイミングだ。
フランス語、英語にも、Excuse me!に当たることばはあるし、I’m sorry,とは少し違うのだろうが、この辺の微妙なニュアンス、英語についてもよく分からない。I beg your pardon,フランス語の、pardon!も「ごめんね」に近い気がする。でも差異もある。
 日本の「ごめんね」は、ふいにやってくる。これはやはり、挨拶に近い。何でもないときに、突然、謝られると、なんで?と思っていたが、栃木弁のお笑いグループの、「ごめんね、ごめんねー」というギャグにあるように、突然、笑いのように、「ごめんね」はやってくるのだ。
 もしかしたら欧米では、謝るときに、(私があなたの前を横切るから)エクスキューズミー!、(私がうまく聴き取れなかったから)、すみません、(もう一度お願いします)、といつも、理由があるのではないか?理性の言語である。 それに比して、日本語のごめんね、には理由も希薄で、さらに主語すら控えめな表現ではないか。私を虚しくする、謙虚である、というのが、ごめんねのこころかもしれない。
 しかし、先日、スマナサーラというお坊さんの本を読んでいて、少し考えたのは、もしはっきりと、人間は、はかない、虚しいものであると、知っている、悟っているなら、謙虚はオートメーションになるか、あるいは、謙虚の無意味を知るのか、スマナサーラの考えを全部分かったわけではないが、こころか理解があれば、「謙虚でありなさい」という訓示も消えるということだろうか?と思った。
 天上天下唯我独尊、なんて暴走族のラクガキか、釈迦しか言えないにせよ、また謙虚は当然であるとしても、日本人が己を虚しく、主語を欠く、「ごめんね」の精神は、「菫ほど小さきものに生まれたし」という漱石の句を思い起こさせた。
 あるいは、謝罪について、「たいへん、申し訳ありませんでした」これも日本の大きな文化の問いで、これはサラリーマン、社会人がテレビで公式謝罪会見などをしている。
 これはオートメーションであり、昔、極楽とんぼというお笑いコンビのラジオで、謝罪はギャグ企画にまでなっていたが、謝罪も大きな文化だろう。
 また「太平洋戦争」とか「侵略戦争」の謝罪となると、謝罪は賠償金だと、身を固くしてしまう。己を虚しくするのは、少なくとも、政治、では不可能だということだろうか?また、賠償金は要らないと言われれば、小躍りして相手を讃える、これはオートメーションで金銭化された負の側面だろうか。
 I’m sorry,と謝ったら財布だせ、だって謝ったろ、と日本人は欧米人などに言われ続けて、自分の「ごめんね」を損なわれてきたのかもしれない。欧米ではおそらく、謝罪は責任の問い、理由があってのことだろう。
 しかし、日本のこころ、というのは、己を小さくすることで深化した、主語を消すことで人口過密、自然をなるだけ破壊せずに生きようとしてきたのではないか。
 これは実際、今の日本の山河、原発等を考えないと分からないが、「ごめんね」が社会契約になり、「申し訳ありませんでした」に変化しても、己を消そうというこころには、どこかこころを打たれるものがある。
 今思うに、自分が入院休養していたときに、何気なく、話しかけるだけでも、ヘルパーさんのおっしゃっていた、「ごめんね」という前置きが、初めは(なんで?)と疑問を、理由を尋ねたかもしれないが、今ではその「ごめんね」が一つぼくのこころを軽くしたのかもしれない、と思う。「ごめんね」に治癒もあるのだろう。

 ありがとう、も理由より前にあるものかもしれない。It is rare and uncertain for you to do this for me,(thank you),がありがとうであるはずだ。確かでないものに確かなものを見つける努力、それへの感謝が、ありがとう、だろうか。
 「さよなら、そしてありがとう、時が過ぎて行く」という歌詞がBEGINの歌にあったが、さようなら、もIf it’s the way it should be(good bye)だと思う。決して語源論の罠に陥ろうというのではない。
 人に感謝されるとうれしい、このことの理由を散策しないでもいい。感謝とはお互いに感じ合うもので、パス交換、サッカーにも野球にも感じ合う、ありがとう、はある。
 人間、相互連関性があることへの驚きと感謝、これが、おぎゃあ、などいろんな人間の音の意識化であり、意味を持たせるなら、ありがとう、そして、次に、ごめんね、がよく意味を説明しうるのかもしれない。
 責任主体がいないことは、責任回避ではない。
 先日、平井玄さんに、「社会の零度」ということの意味を尋ねたら、万人の万人による闘争も、リヴァイアサンという怪物もフィクション、妄想ではないか、社会の零度、というのはそういうことだと教えて下さった。空想のバケモノと阿鼻叫喚を想定するから社会契約論に至るのが西洋だとしたら、市民、市民権を想定することなく、小さき者としてフィクション、神を生きない日本も一つの道を示すのではないだろうか。

Expectation



I want to write an essay on time and it cannot be philosophy to delay my time. I’m in haste because I already have 38 years old. Time passes equal to us all, but there is time of nature and time of human if I intend to separate those two. Let me explain. We have time of time that watches tell us, and time that we feel. In other words, there is time objective (physical) and time subjective (time social i.e. time in common).
However, time is time and there is no classification. “Eternity is an instant” a singer sings. At the end of the day, when we personally die, time is still time. It is not end of time. A river runs thorough it. No vague, no mystification about it. Time goes on. It is not about history but of time physical that sun goes up and moon tells us, time of nature which we calculate in watches in common. More over, for human-beings, time is fitted in society. A time of common sense and its structure is required in society, such as “tense” in grammar for example. And then history comes next to physical time. Humanization of time comes subjectively as a fault. Not a time of science but of art.
Now, I already wrote about “Eternity in instant” and it can mean as below.
Human to create human, birth, retrospectively, marriage, love is the process of creating new life time. Hope is there, born. And without hope, we can not proceed.
We cannot maze ourselves in literature for we have short in time. We cannot search for the lost time. But still, what is lost love? What is there to set us back?
Maybe that is our expecting, waiting to become. A rain blocked journey to take. But encore, what if we already know that it’s lost forever? Was it just a lesson?
Time is among us equal, and it proceeds in same speed.
There is no kidding about it. It is not a lesson that we are taking right now. Time is always now. Hope and expecting good future is required and we can not make mistakes, firmly. Hope is the trajectory we draw towards future, an imagination which embodied by facts. Moving without thinking, it’s the same cycle. Just do it.


2018年6月15日金曜日

吉田拓郎小景



蔑む、という共感もあるだろう。
 批評家はもう暴力革命をノートに落とし込んでしまった。
梅雨の寒空に螺旋のような雨音、ビルの谷間だ。 

自分が愛されることなんてない、という疑念は、謙虚ではない。
人には人を傷つける、力があったんだね、と吉田拓郎は歌っていた。人には人を傷つける力があるのなら、確かに人には愛される力もある、そう思うのだ。
 1970年代、烽火は下げたのは誰なんだ?と犯人探しを1980年生まれのぼくはしていたのかもしれない。社会的なものから、個人的なものへの後退。
 歌はポジで、CDはネガだ。ネガは証拠であり、お金で買える。
 歌はそれでいいかもしれないが、愛はどうだろうか。
 愛は所有ではない。法も、仏法さえも、解釈、ネガにすぎない。
 感情、初動が大切で、論理はそれを追いかけていく。
 そこに詩もある。歌もある。
  
吉田拓郎の歌と終焉、敗北。
若者の歌の考古学か。吐き捨てられた肯定。
 佐渡山豊は70年代になっても敗北を歌わない。
 怒りの音を忘れない、この直観が24歳の自分を貫いた。
 敗北の歌を聞いて再生したというならぼくもそうなんだ。
 吉田拓郎を聞いてから、佐渡山豊を聴いた時系列の流れ。
 
 

2018年6月14日木曜日

計算された愛



ナザレの子よ
戦い取った苦しさと
逃げ惑った悔しさは違うのだ
ゴルゴダのつばきよ

ゾンビに追いかけられて
犬は水平方向に叫ぶ
ロスト・テープの自動回転
死んでない過去でも過去は過去
鬼灯、無花果の実
ぼくは北に戻る

2018年6月12日火曜日

神秘論② 社会体の根源



インスピレーション → 社会体

社会体の始源、根幹を為すのが、天啓(インスピレーション)ではないか、というのが私の関心です。
 インスピレーションは通常、芸術、あるいは預言として宗教では訪れることになっていますが、逆にインスピレーション自体が芸術、宗教の根源として、いわば純粋直観として訪れるのではないでしょうか。宗教があり、芸術があるから、直観があるのではなく、直観を表現、現出するためにこそ、そしてその先に交流があるからこそ定式としての宗教、芸術に固まる必要があるのだと私は思います。
 夢うつつのなか、あるいは突然訪れた、言語にまだならない想念、これを表現することを介して、表現されたものを媒介として、人々との交流を生み出す。そして、この交流こそが社会体へと人々を結びつける働きなのではないでしょうか。
 また、これを国家の枠組みで考察すると、神秘こそが法源、国家をも構成していく最初のきっかけではないか。建国神話、ナショナル・ヒストリーもまた、共感を形作る初動としての神秘ではないでしょうか。
 
もっともこれに対し、近代科学は統計といった数理を通して、票を数え、それを世論として構成してきたとも見えます。議論を通して、一般意志にたどり着くということが省略されがちな昨今の政府。それから、一部の権力者たち、内閣の一存で、あるいは大統領のツイッターで戦争さえ起きかねないようなフィクションを生きる昨今。
キャッチーなポピュリズムが「先進国」で流行するのに抗して、天啓、インスピレーションはしばしば、対抗軸としてのテロリズムの温床と見られても仕方がない現状があるのではないでしょうか。
 問題は幾分古代的な、「誰が正統な神秘を持っているか」、ではなく、いわば「ライシテ(理性、合理主義、政教分離)が近代以降、現代に通用し続ける基盤はあるのか」、という別の大きな問いかもしれません。
 カリスマを通じての預言、一般意志を政治の根幹に据えるのか、あるいはさらに発展させ、数理科学としての票を基盤に党の公理としてもそれを遂行していくのか。
むしろ時代は逆行し、カリスマを求めているようにも見えます。インスピレーションは国会よりも地域の祭、ライヴハウスにこそ求めたい。私は何歩譲っても政治=国会にはたどり着かない気がしています。
官僚制の周到さも時々ひっくり返してかき混ぜないと淀む。政治を委棄しながらも、時々は目を見やるという態度は今でもまだできるのではないでしょうか。


神秘論① 弱体化した人間 -神秘の復権と理性の支配の間で-



  古代、神秘が力を持っているとされた律令制以前の頃、人間は神秘体験を通じて世界を支配しうるとされていたのだろう。それがやがて教育、理性によってまだしも民主化され、理屈で追えるようになると、人間は強い者(支配する者、王者、預言者)から、弱い葦、人間たちに堕落したのだ。
 
「或ハ妄ニ触レテ走ラント欲シ、或ハ自ラ高ク賢シトシ、聖神ト称スル者ナリ」(『伊呂波字類抄』)

 これはかつて神がかりと呼ばれた神秘的な力が、単に病気として治療の対象になった後の言葉だ。百科全書的、体系的、全体からの視点が、神秘を逸脱、病として説明、治癒してしまう。あるいは、社会からそのまま抹消、抹殺されてしまう。ここにこそ、人間の律令、法令、即ち理性の下における「弱さ」の発見、言い換えれば狂気、神秘という「強さ」の敗北がある。
 つまり人間は何もできない、世界の、自然の森羅万象を支配できないという発見こそが、法則、法を準備し、行政を執行する官僚社会を準備したのではないか。政治家とは、もともと神秘、人格、カリスマの領域にあったが、今では官僚出身者の理性に取って変わられようとしているのではないだろうか。即ち、弱い人間、による支配へと。
 だが、民衆において、つまり被支配者において重要なのは、支配されないからといって、支配するのではないこと。つまり、ノンポリ、隠者、無党派、あるいは選挙権のない人、つまり選挙権を行使しない、できないからといって、支配を免れるわけではない、そして当然、支配の側にまわれるわけでもないということだ。当たり前過ぎることだからこそ、抵抗が大事なのだ。例として、テレビを観ている傍観者の発明、弱い大衆の発明が近代、現代統治の要であることを、もう一度意識に上らせたいのだ。
 傍観者、隠者、視聴者であることは、支配者、政治家、製作者(メディア)であることにはならない。お客様は神様、有権者は主権者、全部バカにするカラクリではないかと疑いたくなる。敬して遠ざく、くさい物にはふたを、我関せず、そういう態度が常態になった弱い民主主義…これは全ての運命にも打ち勝とうとしたオイディプスの失墜、目を突いて盲目となる、弱者として傍観する態度への失墜ではないだろうか。
 繰り返すが、支配しないからといって、支配できるわけではない。この弱い民主主義、日本の民主主義の行く末を傍観するのと、凝視することの違いで、物事は変わってくるのかもしれない。

また、そこに明確な線引きをして、今一度、神秘、神の到来を夢見る、なんて言っていいのだろうか?科学と民主主義というのはまた別の大きなテーマではあるが、政治にも科学にも倫理はない。倫理のない所に神秘もまたないのではないか。仮に神秘が倫理を準備するとしたら…
 
「諦めが肝心である」、「お前は弱い」、「当たり前だろ」、という諦念による統治、律令制に抗して!少なくとも、諦めたところにもう愛はない、愛の可能性もない。その一点からだけでも、ぼくは抵抗を試みたいと思うのだ。愛は見せかけであり、まやかしであり、過つものかもしれないが、愛は酒であり、誤謬であり、永遠である限りにおいての永遠に過ぎないとしても、それだからこそ、ぼくは何かをそこに期待するのだ。
 愛がなくなったら、全てはない。全てがある以上、愛もまたある。それだけのシンプルなことを忘れずに、「律令、法、理性」と「狂気、神秘」との折り合い、調和を図る。それがもしかしたら、天皇制かもしれない。それが日本政治の性格を決め、弱者が弱者として主権者であり、投票者であり、代表を立法府に送り込む民主主義の基本を見失わせているとしても、天皇による支配ではなく、天皇法律による支配、即ち象徴天皇制、つまり神秘のシステムによる管理が行われている。そこでは言説は組み上げられた機械となり、もはや詩ではない、流れや音ではなく、論文、論考、あるいは法文である。そうである分、ますます歌は、伝え聴かれる歌は貴重だという思いを強くする。
 「人はそれぞれ楽園を持ち、天国を持っている」、とフランス語のラップでは歌っている。
 ポケット一杯の希望を、神秘を持って街を歩きたい。神秘は人間を主権者にする?王権神授説か、はたまた主権在民の話か?そこにいるのは王者なのか、それとも隠者なのか、そういった夢想を抱きながら東京を散歩したい。
 

2018年6月11日月曜日

Just do it.



I have not been doing muscle training since I quitted foot ball club, that is since 15 years or so.
But as I get older, always sitting in face of PC or just reading books, I feel I cannot continue like this for rest of my life. If I do not restart training, Im sure it will cause problem in near future.
I weighed 63 kg when I was in university foot ball club and people teased me being chubby, but now I have around 80 kg!
I must admit that I'm a fat man, ever since I lost my hope to train myself, it's a shame but now it's just a past.
It's quite controversy that my friend became a model ever since we parted, distraction! Man is weak, woman is strong.
She advised me to try fast diet, not telling me which book to read, she always tell me the outline in short words. I wonder that is a kingcraft of Chinggis Khan
But for the age of science and modern society, I listen to my doctors with their methods in Japan, no macrobiotics (!) Doctor told me that anyone telling lie should get sued
*snip*
After 3 years, my new doctor is specialized in exercise therapy and first 3 months I was given a watch telling me BPM(Beat par minute) all the time Im awake. Monitoring. I knew I didnt like that much neither.

Another year passed and now, I wonder why not do it by myself. I know the method good enough,  the professor of Medical science told me that I know already but I cant do it!!
Now its time. I dont bother with theories on initiative. I dont need anyone to take care of me, that is not necessary. Method and intention that I have already is enough.
Now I regained my spirit of training myself. No more for foot ball but for my good health in lifetime. I know its necessary now.


音楽一般論の試み



   音楽にも飛翔と着地がある。
 どの音楽にも飛び立つ鳥がいる。舞い上がり、旋回し、あるいは悠々と舞い降りる鳥。
 そして舞台、背景、伴奏もいるのである。
 全ての人が主体でもない。
 また完全な客体でもない。
 ジャズの帝王といわれたマイルスが響き合うのではなく、舞台、背景を舞い上がり、その飛翔を描くとき、それは完全な抽象、線ではありえない。孤独、個体というのも違うだろう。
 疑問符を解くのに、一生以上時間がかかるとき、世代、つまりはancestors, descendents, 祖先と子孫がそこにいるのだ。
 
 気流に乗る鳥。
それでも、いつかは舞い降りていく枝、ターミナルが必要だ。ジャンクションを越えて、さらに進んでも、終着点がないと、街に、村に、宿に、我が家に安らうことはできない。
 「百代の過客」と芭蕉は表現した。
 終わりのない旅には、昼寝の軒先があってもいいと誰かはいう。
 道を急げ、と釈迦はいう。
 「急いては事をし損じる」という諺もある。
 全て、は言語ではない。
 言語は、trace,轍に過ぎない。
 
 誰かの過ぎ去った跡の轍に、鳥が舞い降りる。
 どうも飛び続ける鳥はいないし、そこが着地点だ。
 テンション、張りがあり、自分の心と分かち合える音楽もそこにある。
 夜と眠りのない生き物はいないが、その残余、裏側としての不夜城、キロンボ(悪処)にも音、音楽は流れる。
 Humanity,人間であること、その飛翔と着地点、その軌跡が音楽であり、音楽は映し、描き出す。それが音楽ではないか。

2018年6月10日日曜日

カエターノ・ヴェローゾ



孤独を理解するよすが
踊りたいので
理解は後でいい

不滅のうた
空いた時間があると、空を見上げる
もうここにはない、と思う
そしたら波が返ってくる
もう戻ってこない人はリアルだが
思い出はイデアだ

Body feel exit,
わたしとあなた
他に誰もいない
火が点るのが見える
地球上の私たちは
それ以外の何ものでもない

踊れ!
Dance! Wave!
波のように踊れ!

2018年6月8日金曜日

しあわせな愛はないですね ルイ・アラゴン


 
  男にとって得られたものは何もない、強さも、
 その弱さも、そして心も、彼が信じるとき
 手を広げて迎え入れるとき、その影は十字架
 そして彼がしあわせを抱きしめると砕いてしまう
 彼の人生はおかしな痛々しい別離

 しあわせは愛はないですね

 彼の人生は武器のない兵士達に似ている
 兵士達が別の運命を着ようとしたとき
朝起きることが彼らの何の役に立つのか
夜になれば寄る辺のない不確かさに戻されるのに
ああ人生、と言ってむせび泣きましょう

しあわせな愛はないですね

私のきれいな愛 大事な愛 引き裂かれた
私は私の中にそれを持っています、傷ついた鳥のように
そして私たちが過ぎて行くのを何も知らずに見ている人たち
私の編んだ言葉たちを後について繰り返してください
きみの大きな瞳にやがて すべて消えてしまう言葉たちでも

 しあわせな愛はないですね

 生きることを学ぶにはもう遅すぎる
 私たちは心ひとつになって 夜の中泣いている
 なぜかというと、ほんの少しの歌のために不幸が必要で
 なぜかというと、たったひとつの身振りのために悔恨を払わねばならず
 たった一くさりのギターのためにすすり泣かねばならないから

 しあわせな愛はないですね

 痛みでないような愛はない
 愛に傷つかないような愛はない
 クシャクシャに凋んでしまわないような愛もない
 国への思いと同じきみへの愛
 涙を生きない愛はない
 しあわせな愛はないです
 でもそれがわたしたち二人の愛なのです

2018年6月7日木曜日

貴種流離譚? 7月22日 佐渡山豊さんライヴに寄せた散文詩

 


 ぼくのチョークを折ってもいいのは姪だけだし、ぼくのCDの紙ジャケットを破ってもいいのは編集長のEさんだけだ。ぼくのバッシュを踏んでいいかは分からないが、ぼくの足を踏みつけたのはモンペリエ草サッカーの黒人。あれは悪意だったがぼくは許した。あとは語弊があるから言わない。ぼくはもう許しているけど。ぼくよりサッカーの判断力が的確だったのがF野という男だった。官僚になって最初の赴任地金沢に赴く際、「貴種流離譚だ!ガハハ」と笑ったことを人づてに聞いた。パリのメトロの駅で会って以来、本人には会っていない。モノポリーみたいなテレビゲームが得意で、いつも終盤は億万長者だった。ぼくは途中で飽きていた。光栄の「三国志」、洛陽近辺、許昌辺りから始めても相当厳しい。すぐに攻め込まれる、都の近辺は。ぼくは南方の呉のどこか辺りからスタートしていたとは思う。
 終盤はオートメーションでコンピューターに辺境と後方支援を任せて、バチコン!天下を獲るのだが、反乱にはリセットボタンを押し、雪害、風害、それは「信長の野望」だったか、とにかくリセットボタンを押さずにコンピューターと遊び切ったら卒業です。
 さて、何の話を始めようかと思ったのか、もう忘れてしまった。F野は左右でボールが操れて、体幹がしっかりしていた。既にメガネだったが数年前、Z省のホームページで見ても、まだ禿げてはいなかったはずだ。
 BGMは「頭脳警察」のファーストから、佐渡山豊「つむじ風」に。何か文章が書ける予感があった。貴種流離譚は許昌からは始められない。東京のラッパー、KOHH以外はむしろ潰れているのではないか?山梨、一宮の田我流も最近また聴いた。この中心部で声を挙げるのは簡単ではない。線香、「雪の下」を烽火のように挙げるのだ。
 高円寺一揆、ジェロニモ・レーベル。ぺぺさんに、「京大の運動家らしい」と噂話を聞いた。出口なおと大本教、信者一千万人?墓は御陵に似せていたので、軍部が爆破。そんなことばかり調べていた冬だった。
 
夏が来て、また佐渡山豊さんが東京に来る!いらっしゃる!!
 ドゥチュイムニィ(独り言)が聞こえるか?
 続いて抱えきれない流星群、ジンバブエのガリカイ・ティリコティ来日!8月!!
 乾いた声は まだ聞こえない。
 ラッパーたちの暴力は 銃声であっても、SNOOP DOG,
 佐渡山さんの
 雨降るマシンガンでは ありえない。
 そんな夜想をいくら 蒸し返したって
 毒饅頭にもなりやしない。
 佐渡山豊の声を聞かないと、始まらないんだ。
 とうに分かっていたはずのことを何度も繰り返す愚人。
 全部自分の 反復横跳び 復習テスト。
 ドゥチュイムニィをもう何度も聴いたのに、
 その度に意識はまた愚かなところからやり直すのだ。
 同じ問いをどうやってもう一度解くか、
 その度事に歌詞カードをいかに置き換えるか、
 ミソサザイ 
 ちゅん、ちゅん、スズメだ。
 幻じゃない。

 先だって、究極Q太郎さんにメールを書いた。

スターリン時代のソビエトは、家族という中間団体すら解体し、国家と個人を直結させた
フランス革命以上の全体主義国家を目指したのでしょう。
スターリンが自殺に失敗した息子に、「おまえはだからダメなのだ」という趣旨のことを言ったことにぼくは怒りを覚えています。

 ぼくは思うのだ、「人権」とはモンゴル民族に負けたヨーロッパのアンチ家族ではないか?と。これは釣り込みやすい、公のジャパン。大きい家って天皇家。ヤマト関西、九州卑弥呼、関東の覇権とまほろばの東北とアイヌの島も。琉球。長宗我部元親の四国に、後は根来衆の鈴木家か。ゲームで学んだこともある。ニライカナイについては調べすぎた……
 長い話なので端折る。
 「コロンどもよ、去れ。」
 あなた方に的はあるのか、目的は。
 ホレイショーの援軍が伴天連の馬鈴薯
 とりわけジャガイモの病について書くがいい、
 「ランボーはピストルを売った」、と佐渡山さん。
 テンションについて、セロトニンについても研究を進めた。
 医者は笑っていた。
 「おいで、おいで」と ちあきなおみ。
 何度も何度も面接していると狂人が常態になる。
 「あなたは治る」と言った医者は、
 「これも、運命ですよね」と更迭されたのか?
 またもう一度、話を飛ばす。
 途中経過は別の誰かが書けばいい。
 むしろ、今日はもう疲れた。
 あと、サッカー日本代表にエールをと思ったが、F野に任せるよ!
 むしろ、俺が助けてほしい。
 ジェロニモ・レーベルのCDを、声援と共に、
 佐渡山さんに届けます!!

 出演:佐渡山豊
会場:Goodstock Tokyo http://goodstock-tokyo.com/
時間:18:00開場 19:00開演
料金:予約3500 / 当日4000円(ドリンク別途) 
交通:東急目黒線大井町線大岡山駅徒歩4分
住所:東京都大田区北千束3-20-8 スターバレーパートII
問:03-6451-7396



 

シンガー、あかねさんについて、まとめとライヴ記。


 


  「パスカルズのCDが想像以上に良すぎる!浮世を忘れてしまえるね!」

「マドンナの音は離れられないように細部まで計算され尽くしている。「兄弟」「パスカルズ」のあかねさんの歌声を聴いた後に、マドンナを聴きたくなったのは、静と動、聖なるものとセックス、俗の両極だからか。あかねさんは、野に咲く花のような、仏のような音。この音はアメリカにもフランスにもない。」

  
 声明、あかねさんのうた
 
 2018年2月、青木たかおさんが体調不良ということで、「兄弟」のライヴ、あかねさんが前面に出る形での珍しい(?)そして素晴らしいライヴでした。
 あかねさんといえば、ピアニカのイメージと、かすかな打楽器、カスタネットなどの伴奏のイメージでしたが、昨日はギターを弾いてらした。
 買ったばかりというギターの音色は素晴らしく、指の力だけでははなく、ギターは柔らかな音色でもあるのだと感じました。シンガーのギターをまた一つ、発見、聴いたという思いがしました。
 あかねさんの歌、声と「兄弟」の歌詞の世界は素晴らしい。「森」という歌もよかったですし、新曲も胸に迫るものがありました。
 浄化された、の一言で言える感謝。
 仏教の経典を一字一句読んで埋められなかった心のこごりを、あかねさんの歌が明るく澄み渡って行きました。
 清浄な心とは、子どもだけが宿すものではないのですね。
 「こころを汚すことが大人になることではない」
 そう胸を張って言えるライヴでした。
 ありがとう、ありがとう、カムサハムニダ。


 「兄弟」ライヴ、夢のしじま-高円寺グッドマン-

昨日(2017年夏)、ライヴから帰ってラフスケッチを描いているうちに、眠ってしまった。スケッチといっても文字で書いていたのだ。書くことで何かを支えている自分に嫌気すら忘れて、書くことが何ものかであるかのように、描いていた。
 なんか今、ノートに、鰻に牛丼を食べさせるようなことが書いてあったから、錯乱していたようだ。そのままの文章は割愛してもいいだろうか。
 書けないのである。ここにはない理由で、聴くこと、歌を聴くことが慰めの前段階でしかないようなビールを飲んだことはあるか?苦くもないが、気落ち停滞したビールを。
 夢中に語る。
 物語る。
 止まる。
 治療する。
 もう一回立て直す。
 これだけの単語をメモ帳に羅列した。
 夢のしじま、沈黙、muetでしかない。
 1ミリだけ前進できた道草だった。
 青木タカオさんと井伏鱒二の『山椒魚』の話などをしたが、それもまたいずれ。
 アカネさんの澄んだ声の先にピアニカもあった、台風の目を探り当てるように、待ち合わせの時間を待っている、ということもぼくにはフィクションだった。
 彼女の不在でぼくは心のなかで語り過ぎた、とても饒舌な沈黙だった。
 次の日の仕事を終えてこの文章を書いている。
 例え数秒でも、雨から彼女を守る傘にぼくはなりたい。
 
 尾根伝いにオネエが今日もハイキング、
 ぼくは想像しない、ぼくは待たない。
 ぼくは居る、ぼくは屋根を作る。
 饒舌な黒服を着ていた。左手が寂しかったから、銀の時計とビーズ細工で飾った。
 そうして一片の詩ができた。


 「兄弟」しあわせがそこにある。

かけがえのない人たち。青木さんとあかねさんのお二人のバンド、「兄弟」はそんな気持ちにさせてくれる大事な空気、歌があります。青木さんの肯定的なまっすぐな歌やギター、ハーモニカ、そしてあかねさんの澄み渡る声。IT企業って、イノシシ・トコトコの略だとおっしゃったり、行ってきます・ただいま、か、行ってらっしゃい・ただいま、か忘れたけど、ITが何の略なのか、本当に考えたら、イノシシ・トコトコ、なのかもしれません。
批評を忘れて、ただ文を組み立てたい、流れを書いてみたい、そういう風に思いました。心地いい空気のなか、日頃の憂さを治してもらおうなんて、ケチな根性さえ少しはあったけれど、あかねさんの澄んだ願望、希望の声音と、青木さんの包みこむ肯定感のなかで、二人の周縁は照らされています。
杉山たけるさんとそのバンドとの相乗効果、相性も素晴らしく、杉山さんの作った曲のなかでぼくが一番好きな「赤い花」、それをアンコールでセッションされていたのも良かったです。
批評ではなく、楽しみを楽しむということ、それが音楽でしょう。
しあわせになるために生きているんだ、少なくともどこかの国のインフレを改善するために生きているわけではない。限られた領域の話に限定すべきでもないけれど、そこから広げ過ぎるわけでもない。
青木さんは、「杉並っぽいといわれる」とおっしゃっていましたが、ぼくは、「ご出身の新潟、いろんな要素がある」みたいなことを申し上げましたね。
「言葉にできないけれども、すごく良かったです」ということは青木さんに申し上げました。CDが全部で3枚、これはいずれ全部聴くだろうなと、最新作を1枚購入しました。
杉並、武蔵野、新宿、中野、その辺の心の地図を描けるだろうかと、ふと思わないでもないですが、もっと広く、新潟で青木さんが飼ってらした犬の歌も以前のライヴで心に残っていますね。
この人達とならしあわせになれる一般ルール。それを探し、見つけ、生きて行く、そういう時間をこれからも紡いで行きたい、そういうライヴでしたね。
 冷たい科学では物事は生きない。そこをイノシシ・トコトコと越えていく、そんな試みも大事。ともあれ、とにかく、生身の人間として、微妙な音を聞きとり、全てを判断する阿吽の呼吸、それを身につけるため、今日もとりあえず、生活と生活以外にも生きる、そう思いますね。
いつのまにか悩みも解決する時間、今後、大小の課題が2万件!それ全部忘れても、ライヴに行った方がいいですよ。
 

2018年6月4日月曜日

労働市場の光と闇



労働市場の光と闇、というか、そもそも表の市場には出てこない広大な領域、家事などもあるわけで、全てが市場化すればいいわけではないだろう。その点、「家事に賃金を」という主張が通らないにはそれなりのわけがあり、搾取だけではない。反面、搾取のない労働関係はないと思う。
しかし、いわゆるスウェット・ショップと言われる賃金なきに等しい労働環境が他のインセンティブ(家庭など)を軸に行われているとしたらどうだろう。
いや、むしろ問題なのは会社や国家による家族主義的労働による搾取というか、日本社会、社会契約論ではないのではないか、という気がしてくる。ぼくは無駄な会社での時間というのは耐えられないので速攻帰るけども、同時にそれは会社の家族的時間からは外れていることでもあると感じる。あくまで外様なのだ。この点、派遣社員などは、会社社員とは一線を画した孤独感というのはあるのではないか?
また市場の闇の部分に光を当てることは得策ではないが、いわゆる裏社会は裏社会として自立しているのが望ましいとは思う。全てを国家の下に、ではなく、言ってみれば、課税対象の限度外の社会もまたあるのでないと、そういった隠れ里、抜け道からの神出鬼没が不可能になる。江戸時代の開墾やそれ以前の律令制度、王土王民、の外、外部もまた重要な役割を持つのではないだろうか。音楽、笑い、キロンボ、暴力、性の放縦、全部、「堅実な」愛には見放されたエデンの東だ。
この外部社会との往還として芸能もあり、その中間に位置する人間、そこで生きる路上の民もいるのだろう。この辺、よく分からないが、闇は闇として確かに夜は闇になるのでないと、煌々と灯りがつくばかりが能ではない。狭められた「在所」では被差別も激化する。この辺は全て推測でしかないのだが、王土の外にも日本には場所がある、というのは楽観的過ぎるにしても、心のなかに「在所」を持て、とぼくは言いたい。
つまりは征服されざる美としての芸能が一つある。今、美も笑いも全て統合されてしまい、鬱屈している。サッカーでさえ、本当に楽しいか?
海外にはもっと、この「在所」、ゲットーも多いかもしれない。闇から光に引きずり出されたモグラたちがいつまでも活発に動けないのは何となく感じている。しかし、光は闇を放ってはおかない。
やがて夜が来る、魑魅魍魎の時間だ。街頭の灯りが消えれば人の心もさざめく。王、は闇をどう見るのか、ということが気になっている。光、皇は何を見、何を考えているのか。

スカボロー市




 あなたがスカボロー市場にいらっしゃるならば
 パセリ、セージ、ローズマリーそしてタイム
 そこに住んでいるひとによろしく伝えて下さい
 彼女はぼくの本当の愛のひとだったからです。

 彼女にカンブリックシャツを作って欲しいと伝えて下さい
 パセリ、セージ、ローズマリーそしてタイム
 結び目も そして縫い糸もなかったなら
 彼女はぼくの本当の愛になるでしょう。

注目の投稿

見たことのない海が見える(佐渡山豊、アコパ・ライヴレポート)

   一応、ぼくたちはクラス分けテストを受けている。  それぞれが違う学校にも通ってきた。  いい塾があり、いい学校があり、その先にもいい会社がある。  「つまらない」とぼくは旅に出た。父親の許しを得て。  好きだった恋人とも離れ、「つらいだろう」と父は...