2016年12月16日金曜日

佐渡山豊論 「ぼくもみんなと生き続けたい」




 謝辞、acknowledgement

今、さらに佐渡山豊について、さらなる一文を付け加えるとするなら、……、ぼくの反復する思いは何度でも甦ってくるようです。それだけ、反復に耐える音楽であるし、詩、詞だと思います。英語訳をいくつかさせていただいたのは、佐渡山さんの詞をもっと味わってみたく、英語にすることによって新たな解釈が可能になって、ほんの少しまた見えてくるからです。
 そうやって、約4年間、佐渡山さんの近辺で、文章を書かせていただくことによって、少しでも文章が上達して、心が磨かれたなら、やはり書かせていただいてよかったなと思うのです。
 この本をまず佐渡山豊さんご本人に捧げますが、多くの方の助けを得て書き上げることができました。マネージャーの木下頼子さんには、初めての時のライヴにお誘いいただき、その後、ご縁をいただきつないでくることができました。そして、文章家として、凛として熱く誠実なルリヲ・フルチ氏の存在がなかったら、ぼくは文章という自分の好きなフィールドで、勝てないなと思いながら、チャレンジし続けることはできなかったでしょう。アルバム「つむじ風」のライナーノートを始め、記憶に残り、反復に耐える名文だと思います。それと、佐渡山豊さんのファンの先輩である、佐渡山潤さん。いろいろ親しく沖縄のことも含め、教えていただきました。ギタリストの杉山タケルさんにも親しくギターを含めた佐渡山さんの楽曲について、示唆を受け、楽しい、にこやかな時間と音に感謝したいです。
 佐渡山豊さん、ご本人には、ぼくは「すみません、やっぱりぼく書けません」と泣きを入れたり、その時も、「あずまくんなら書けると思うな」と励まして下さいました。ぼくという、言い出してやりたいことも大事にし過ぎて引っ込めるような、自分の性格を越えて、成長できるとしたら、この本が一つのその軌跡だろうと思います。
 その他、この本の最初のゲラにも熱心に目を傾けて下さった、東京大学の外村大(まさる)先生、先生への多大なご恩はここでは言を省きますが、一言で言えば、自分が20代の後半から35歳現在まで、まがりなりにも生きて来られたのは先生のおかげです。
 また、ライターとして初めてお仕事を下さり、ご指導下さった労働教育センター(出版社)の遠藤寛編集長、そして、佐渡山さんのライヴに行っていいものか、迷っていたときに、「行けばいいんだよ!」と背中を押して下さった南宏行さんにも感謝いたします。
 その他にも今思うと、様々な方のご助力、温かい言葉があって、書くことを続けてこられたことを思います。やはり母がいなくては、この歳まで好きな道を歩んでくることができなかったでしょう。自分に文章の才能も努力も、感じないまま、手応えのないなかで進んでこられたのは、家族の支えがあるからです。母は忍耐強い、最初の読者として、日銭一つ稼ぐでない息子を養ってきました。中国の老子がいう、「我独異於人、而貴食母」(私一人が他の人と考えを異ならせ、母に食わせてもらうのを貴いとするのである)、というのを標榜できてきたのは、母のおかげです。父はこちらが感謝を示せるほど成熟する前に、惜しくも亡くなり、その5年間の喪、リュストラルが明けたばかりとも言えます。本文にも一部書きましたが、父と母を知る、ということがもしかしたら、ぼくの今後の文章家としての動因、モチベーションになっていくかもしれません。「すべての文は読み為したり、肉は哀し」とマラルメという詩人が書いていたと思うのですが、まだまだペースを保ってぼくは本を読みたいです。そして書きたいです。
 なんだか謝辞がやたら長くなってしまいましたが(笑)、以上にします。もちろん、というか、これから読んで下さる全ての読者の方に、最大の感謝を持って、文章を書き終え、講評を請います。
ありがとうございます。道はまだまだこれからです。

           2015年6月1日 梅雨入り前、 
東 和史


 七二一 欠けている足りないものは音を立てるが、満ち足りたものは全く静かである。愚者は半ば水を盛った水瓶のようであり、賢者は水の満ちた湖のようである。

    『ブッダのことば』中村元訳、岩波文庫より


目次 
 
つむじ風、佐渡山豊論:Being there.そこにいること。 
 You know me? ‐照れと不信と挑戦 
表紙の絵を眺める、空っぽな空から 
沖縄に行くにあたって 
沖縄に行って 
コザ観光記 
エトランゼ(アルバム「サバニ」より) 
運命のビーナス論‐網の目、魚の目に抗して‐  
モモガルテン、ライヴレポート:ぼくも人を大事にしたい。 
佐渡山豊、フォークに非ず! 
澄んだ湖 
ラシッド・タハと佐渡山豊
李箱の鏡と佐渡山豊の鏡、試論
よろんの里
佐渡山豊、末期の眼 La contemplation
自分自身のドゥチュイムニィ‐千の丘を越えて‐
もっと先にあるもの(野底マーペー)
稲妻からの自立支援‐佐渡山豊さんの言葉を縁に‐
あとがき


つむじ風、佐渡山豊論:Being there. そこにいること。

本を書くのではない、一文字を書くのだ。一行を書くのだ。その先にしか道はない。「つむじ風」を聴く、佐渡山豊を聴くということは、全ての音楽を聴くのと同じ方法、形しかありえない。あまりに当たり前のことを言うと、人はぼくを愚かだというが、それ以外に自分が言いたいことはない。聴いていない、書いているだけではないか、模倣の先に何かを付け足したい、それだけのことではないか、自己批評はたくさんだ。不幸な人たちとぼくは切れていたい、あのテレビの笑い声がぼくには阿鼻叫喚に聞こえる。テレビを蹴倒したとしても、テレビの奥の不幸の種まで消す、なくすことが人間にできるだろうか。佐渡山豊の歌に対してできることは共振、共鳴だけである。ルリヲ・フルチ氏も共振した。私にもそれ以外の道があるわけではない。感情の大きさに向き合えるだろうか。音楽は聴いているリアクションが全てだ、私には内省と共振しかない。体を揺らす、音楽に乗る、ということは私の場合はありえない。そういうことは、アフリカのリズムの為せる業だ。佐渡山豊の歌はもっと深い情感に響く。日本語である限り、意味も分かる。詞で聴くのではなく、歌で聴くとしても。翻訳者として私は、佐渡山豊の歌を英語に訳した。この歌は果たして、聴くものが「日本語を学びたい」と思う歌だろうか?それとも、それは日本語を越えて伝わるものであり、日本語ともどこか、切れているのだろうか。この情感、この声量、この奏で。この歌曲は地を奮わせる歌なのだ、地霊の心の底に響く。聴き続ける体力、気力、心があなたにあるか。頭と胸と手足と心で、一心に聴くことができるだろうか。私は私の騒音の中で聴いている。純粋な無菌室で聴くのではない。世の不幸のなかで、すすり泣く笑い声のなかで、私も生きている。自分の音を見つけたような、たまさかではない輝きのなかにいた。そこからどう下降するわけでもない。痛みが痛みとしてある。この歌は正直である、不幸を不幸だという歌だ。だからこそ、喜びも在る。ザイン、西洋語を借りなくてもよい。存在、ダーザイン、現‐存在があると翻案もできる。ここからが自らの影響圏の話になる。ヒリヒリと、佐渡山豊の全楽曲を聴いたから語るのではない。百科全書、博物学では迫れない、「良知」、「格物致知」、朱子学や陽明学、あらゆる知が涙をのんでいる。涙は笑いに変わる、涙だからこそ、笑いが渇いていないのだ。日比谷の御幸通りを左右に見渡しながら、「帝国」に背を向けて駅を目指す。売笑婦は笑いまで売るのか、あまり聞かないことばだが。共鳴、共振は世界の一隅のダウンライトだ。尿意と暴威で腸から膀胱まで一直線、歌は伝う。ここではカネも意味をなさない、数字は青ざめる。「マブイを乗せて、サバニが行く」、魂を乗せて、舟が行く、肩の力が抜け、目が虚ろになる。私は一人の他者になる。誰が誰を責めるのか、誰も自分しか責めることはできないじゃないか!捩れた手を挙げてか、後戻りをしているかもしれない。無意識と意識の混濁ではなく、覚醒。時間を忘れる、時間の外に出る。時間外勤務か、勤務外時間か、off your balls,伝わるだろうか、言外のことばが:鼠が走る、窓外を蛇行する酔っ払った船、ちんちくりんの詩だ。音を緩めないで佐渡山豊を聴き続ける、「つむじ風」を聴く。「ためらいながら、お前を照らしているよ」、音を緩める。帆をたたむ、後はただ聴いていよう。つむじ風、ってそういえば、どんな風だろうと想像しながら。この温室のなかで、雪道をたどりながら。                                                                                       


You know me? ‐照れと不信と挑戦
 
痛みには触れまいと思ったのだ。CDを聴いて、人の痛みに触れるなんて機械仕掛けの感情論じゃないか。詩論ならば言葉だけ、感情はないものというわけではないが、幾分でも感情は薄められるだろう、リズムも音もないわけだから、血液に逆流したりしない。
 ひまわり、という歌に出会ったのはある日のライヴだったが、本格的にこの歌に出会い直したのは、CD録音だった。平板な文字と、刻まれた音ではなく、耳が震えるような体験。あるいはずっと後の録音、「白い狼」、好きな歌だ。佐渡山さんの歌には自分のなかの痛みがないと共振しない何かを感じていた。ひととき、有頂天な気分の時に、あえて聴いてみたこともある。それでもやはり心の振れ幅は変わらなかったように思う。ぼくは感情実験をしているわけではない。ただ楽しい気分のときに聴いたらそれでも心は自然に治まり、粛然とさせる何かがそこには在る。
 ぼくはゆっくり下降していく、別の音楽を聴き始める。音楽はどんなものでも音楽だ。人の痛みを楽器と声で緩めるのに違いがあるはずがない、あるのは、その強度、毒にも薬にもなるというように、治療に難しい心のがさつき、それには特定の音楽がいる。それからもっと緩めてくれるような歌も必要になる。歌の処方箋をDJ任せにせずに、自分でそのとき、そのときで聴いてみる、別に誰でもやっていることだ。いくつもの音楽、幾多の人々のなかに佐渡山さんもいる。卓越など、この人は望んでいないのかもしれない…You know me?、「湯飲み」と茶化したいつかの言葉に、ぼくは佐渡山さんの照れと不信と挑戦を感じ取った。それに気づくには、ずいぶん時間がかかったというか、ある種の妄想を確信にするには、こちらも、照れ、不信はないが、挑戦があった。魂の治療者としての自負、書くということは呪文で書かれる対象の人を救うことでなくてなんだろうか?
 ぼくは何度も、序文を書いては消している、歌論を書く?詩論を書く?ぼくは何を書きたいのだろう、それはこの世界の成り立ちとそこからの治癒、解放でしかないだろう。
 書く、ということはその人の魂の治療者となることだろうか、賛仰し、崇め奉ることで癒される患者などいるだろうか?書く、という僭越なことには治療者としての自負もいる。無論、無免許でそうするのである。魂には証文も承認もない。これは全ての音楽に通暁する論であり、魂、心、精神の治療であり、だからこそ佐渡山豊論なのだ。佐渡山さんの歌だけを聴くから、佐渡山豊論が書けるのではない。この世の全て、森羅万象に触れるからこそ、佐渡山さんのことがほんの少し分かりかけるのかもしれない。またそれは母を知り、亡き父を知る、という自分自身の治癒にも続いている、そういう論だ。書くなら限定せず、全てを書かなければならない。そう思って論の端緒とする。もう3度目に書いた序文だ。



表紙の絵を眺める、空っぽな空から

どこまでが序論でどこからが本論なのか、自分に分かっているわけではない。計画を立てない、ということが唯一の計画であるように思う。詩集『空っぽな空から』の表紙を見てみよう。すごく説明的で詩的な宇宙観の図が、絵が描かれている。正直、意味が分からないところがあっても全体的に納得してしまう、自分がもし図を描いたなら、LOVEの領域のヒューマン・チェーンというか手をつないだ人々はいるだろうか、とか、いろいろ感じながら眺めることもできる。だいたい、佐渡山さんの詩も似たようなイメージがあるのは気のせいではないと思う。つまり、根が設計的というか、丁寧に世界観を言葉で織り込んで行く、‐隣の部屋の子どもたちが遊んでカベをトントコ言わせる、カベにボールでもぶつけているのか、足踏みの音もけっこうする‐そういう自由さがこの絵にはあるんじゃないだろうか?私、はピラミッドの上で両手を拡げている、すごい世界の中心だ!そういう無邪気な歓喜がある。それでいて世界の底には水の墓場さえあるし、地球は太陽の表面に影のように交わっている。はっきり言ってかなり謎だけど、押しつけがましくないこどもっぽさとでも言ったらいいのか、自由な発想がそこにはある。それでいて、しっかり世界を描き出しているのだ。まるでこの絵は、「アメリカ、アメリカ」のグランド・キャニオンの描写ではないか、という気がしてくる。1967.6.20という数字から、2013.03.00の日付までぶれていない世界を描いている。つまり、アルバム「つむじ風」まで通暁した、「光の作ってくれた、たった一本の、路」が伸びている。
 筆者は何も予言的にこの絵を眺めたいわけではないし、精神分析、なんてものは学んだこともない、どちらかというと、うさんくさい気がしているくらいだ。ただ詩には詩で応えられるときもあれば、散文で追いかけるときもある。これは今までにない詩論なのだから、また裏側からシャウトとしての歌も論じなければならないから、いろんな道具立てがいる上に、それらはにこやかに調和しなければ。存外、広域な、雨の領域、アイスティー号の落下軌跡、太陽にはちゃっかり天使の入り口があり、風の領域が宇宙空間に漂っている。
 こうやって、「空っぽな空から」の見取り図、宇宙観を書き出してみた。「すごい!グランド・キャニオンだ!」、アメリカの旅で佐渡山さんが見られた世界がこの絵のなかに凝縮されているかもしれない。「白い狼のヨセミテを通って、サンフランシスコに入るんだ」、と言われても土地勘のない自分には地図を広げるか、この絵を観るしかない。基本的に佐渡山さんはやんちゃなんだろうな、と思う。それでいて、何かが欠けているとも感じている。空は空っぽなのだ、「相変わらずの朝が来て、…相変わらずの夜が!」(ヒマワリ)の世界なのだ。沖縄というところは暮らすとけっこう時間を持て余すのだろうか、筆者の幼少期の豪州体験では、けっこう太陽が燦々と閑だった気がする。そこは東京ではない、少なくとも。東京は宇宙の中にあるのかな?ピラミッドの頂点と地球までを一辺とする正三角形上の軌道に、一体どれだけの人間が連なっているのだろうか?好奇心は遊ぶ。こういう風に音楽も作っていったら、苦界もキャンバスに溶けてしまう、不気味ではない太陽が変にマンガチックだ。そうだ、これはマンガなのだ、浪漫なのだ。けっこうまじめに、設計図的に見入ってしまうが、詩集のイメージはこんな感じでいいだろうか。なんだかんだ言っても、ファンのなかでもっとも若造な部類の筆者が描けるのはこれくらいである。


沖縄に行くにあたって

 ぼくは沖縄に赤ちゃんのときに行ったことがあるみたいなんです。その写真も見たことがあります。だけど、そのことを母に聞いたのは比較的最近で記憶にはありません。4歳下の弟が生まれる前でしょうし。それ以来、ずっと沖縄は知らない所でした。イメージとしては小学校のときを過ごしたオーストラリアのマンリーというビーチ、そういうイメージでしょうか。
 大学のとき、米軍基地反対のティーチインというイベントに何となく参加していたのは、よく理由が分からないのですが、一つは単純に好きな女性がいたからに過ぎない気がします。なんというか、かっこつけたかったというか、いいとこ見せたかったというか、それと人の話を聞いて理解するのが得意だという思い込みもありました。
 モンゴル語科の後輩に、モンゴルの研究から沖縄の研究に変えた人がいて、外語大で日本のことをやるのか、とよく分からない気がしていました。その頃は、フランスから帰った後のことで、沖縄はフランスより遠い、と感じていました。
 なんというか、ビーチのあるところには、自分のような学生が行くにはお金もないし、パリだったらなんかネタになるというか、出世の糸口みたいなイメージはありましたが、海で泳いでも楽しいだけだろう、というようなイメージしかなかったのは恥ずかしい限りです。たしかに、イラク戦争への反発から、米軍には反感を持っていた、そうそれこそ、ティーチインに参加した本当の理由かもしれません。
 
 途中はしょりますが、ぼくが旅に出て決定的に何かが変わると思ったのは、2度これまであって、一つは初めてパリを見たとき。ホテルの窓から見えた看板を辞書で調べて、花屋だとわかったときには、自分は何度となくこうやってフランス語の辞書を引くきっかけになったのかもしれません。
 もう一つはフランスから帰って5年以上が経って、ずっと国内にいたのに久々に海外に出て、韓国に行ったときのこと、このときは、行く前に文章を書きました。長い病気から立ち直って、もう一回、日本の外に出ようと思う覚悟がありました。というより、どうしても早く出たかった、それはもう、当時付き合っていた人を置いてでも、韓国に行ったのです。

 学生のときの、モンゴル科の後輩はうちナーグチの勉強をしたり、三線を習っていたり、楽しそうでした。ぼくは特に沖縄に関心はなかったのですが、フランスに行く前に、BEGINのCDを買って、パリの下宿で一人、「声のお守りください」を聴いていました。別に「恋の始まり切ない」みたいな出来事もなかったのですが、歌が好きで聴いていました。
 ところが、沖縄が徐々に自分に親しくなっていったのは、卒業後で、まずお世話になっていた先生が、沖縄の労働組合史を書いたことがあり、沖縄の話をしてくれていたのです。
 ティーチインに参加して、どうやら沖縄はビーチだけの所ではないらしい、大変な思いもしているし、ヘリは大学に落ちてきたし、そこの学生は悲痛な表情だったし、と自分も何か感じるところはありました。

 それでも決定的だったのはやはり、歌でした。何気なく図書館でいつも通りCDを物色していて、「俺たちのフォーク」というCDを借りたのですが、最初は吉田拓郎は懐かしいなくらいにしか思っていなかったCDです。ところが聴いてみて、佐渡山豊さんの歌に出会ったのです。それはもうぶっ飛びました。
「日本には核はないと言うけれど、なぜか沖縄にはたくさんござる」
 とうのを聴いて、ほんとか、と思いましたね。これは歌っている人の声からして、嘘には聞こえない、本当だろうと思い、自分のなかの「安全神話」がガラガラと崩れました。
 そこからは、早いです、ユーチューブで、佐渡山さんのドゥチュイムニイを聴いて、これは自分が今まで聴いた歌のなかで一番重要な歌だと思いました。そして、渋谷のタワレコで佐渡山さんの最近のCD『時間のカケラ』を聴いて、ツイッターでぶつぶつ言っていたら、佐渡山さんに縁のある方の目に触れ、それで気づいたら勇気を振り絞って、駒込のどぅたっち、のライヴに行くことになりました。
 それが事実上のぼくの人間復帰でもあったでしょう、フランスから帰っていろいろあって、病気にもなって、人間やめたまま生きていましたから、人前に出ることも、人と話すこともずっと億劫だったというか、自分から何か積極的にする、ということは滅多になかったのです。あるいはあったとしても、国を出ることだけがモチベーションで、正直、憧れのライターの真似ができたときも、まだなんとか生きていける道が見つかったと思ったくらいで、深い感動とかは味わっている余裕もありませんでした。
 早めにどぅたっちの店の前に立ち、もうそこでリハーサルで佐渡山さんが歌ってらしたのを見たとき、CDやユーチューブでしか見たことのない人が力強く歌ってらっしゃるのに、安堵を感じました。ライヴもよかったです、「ビン・ラディンに捧げる歌」を聴いて、佐渡山さんの口から「コロン」という言葉を聴いてからは、ライヴ後にもう話かけざるをえなかったです。もちろん、間には、よりこさんという、ツイッターで誘って下さった方の紹介がありましたが、ライヴ会場も決して広くはなく、話ができるスペースであったことが幸運でした。
 以後、佐渡山さんのライヴに何度かお邪魔し、佐渡山さんの御親戚の佐渡山潤さん、という方ともお話させていただいて、沖縄のことを聞くにつれ、どんどん沖縄は自分のなかで、近い、かけがえのない場所に変わって行きました。
 外語大を抹籍になった竹中労さんの『琉球共和国』を大学卒業後、先生の手伝いのバイトをしながら、読んでいたり、いろんな経緯はありましたが、とうとう、今度は、弟が沖縄に行きたいと言い始め、家族旅行で、行くことになりました。
 繰り返しますが、いろんな伏線があり、北海道、アイヌなどと並んで日本の辺境として論じられるなど、いろんな切り口で論じられる沖縄でもありますが、ぼくにとっては、佐渡山さんの歌が全てで、それで真夏の新宿に、沖縄基地反対デモなどにも単身参加したりもしました。
 沖縄が韓国に行ったときと同じくらい、大きな転機として今、目の前にあることは、理論や話でも言い尽くせませんが、予感といってもいいと思います。
 
 最後にいかにぼくが変な人間かということを蛇足のように付け加えると、前に付き合っていた人と二人でカラオケを歌っていたとき、まきはらのりゆきの「もう恋なんてしないなんて、言わないよぜったい!」を歌い上げ、抓られました。しかし、ぼくには世界への存在への恋がなければ、前に進めないある種の直観主義なところがあります。
 これを読んでみなさんがどう思われるかは自由ですが、存在の外、自分の外に出て行く動きのなかに、自分を見出したい、そういう思いと予感が今回の旅にはあると思います。

 長らくお読みくださり、ありがとうございます。ほんの予感の話ですが、長い話になりました。
 














沖縄に行って

 沖縄に行って帰ってきてから、約20日が経ち、穏やかな連休の朝を迎えている。その間、人にはがきを出したり、メールを書いたり、ラジオに投書したり、人に電話したり、いろいろあって、ようやく、腑に落ちたというか、文章を書く気になったのです。最初ぼくは、文章を書くのを止そうか、とまで思いました。それくらい見てきたものの多様さ、衝撃は大きく、文字と世界の関係に迷いました。例えば、沖縄の家の作りが「本土」と違うことや、海の広さや、視覚的な感覚が呼び起こされて、文字という抽象を許さなかったのです。あるいは、さまざまな味覚、手に触れたものたち、そういったものを呼び起こしてみても、とても文字になるとは思えなかった。そういう原初の感覚を、「物自体」と呼んでみたところで、それも一つの抽象であり、一つの言語による世界観であり、自分の求めている表現とは違う気がしました。
 具体的に、ということばがぼくはあまり好きでもないのですが、一つ上げると、牧志公設市場を歩くときのおっかなびっくりな感覚、唯一、自分一人で歩いた感覚を大事にしながら、それでも家族を通じて吸収した沖縄への眼差し、あるいは、自分自身の自問と反芻、いろいろ振り返ることはあります。
 読谷で海を見ながら、癇癪を起し、一人で車のなかでソーメンチャンプルーを食べたのは、何への反動だったのか、予定調和的な旅の破壊だったのか、この海にかつて米軍が上陸したと知っていたことが何か作用したのか、これ以上、飽食と消費をしたくなかったとか、それとも、そろそろ自分の見たい沖縄を見たい、という決意だったのか、ぼくは、黙々とソーメンチャンプルーを食べていました。
 そこから、旅は家族とリゾートを離れ、自分一人の旅へと向かったのです。家族旅行のなかにも、自分の感覚を取り入れ、集団ではない、自己を思い起こしたのです。いろいろな制約を越えて、家族の感情を足蹴にし、禅でいうところの釈迦さえ殺す、という覚悟で、沖縄に来た意味を探しました。それは、ひとえに、佐渡山豊さんの歌の光景を観ること、フェンスごしに向こうを見ることだったかと思います。何も米軍基地を観に沖縄に行ったわけではないものの、やはりそれが欠けては何もない、ということだったと思います。
 帰って二十日ばかり、朝まで生テレビの沖縄討論の、なんとも言えない空気、沖縄現地で開催しても色濃い東京のプロパガンダ、ろくに観なかったのですが、原発の多い日本で米軍は抑止力にはならない、と太田昌秀元知事がおっしゃったということには、いくらか溜飲が下がる思いがしました。ろくでもない討論と見せかけた茶番劇、その他、雑言は尽きないけれど、やはりというか、メディアよりも、現地に足を運び、歩き、自分の目で見ることを通じてしか何も生まれないのだと、そう思います。
 冗長に、何かをそれでも伝えようと文字を連ねることも烏滸がましく、それでも、書いたからには何かを言わねばならぬと焦り、結局何も書けなかったという思いがしますが、基地のゲートからバイクに乗った、おそらく軍属の人間が、車道に繰り出すとき、言い知れぬ戦慄を感じました。ここでは、外と内が混ざって行く、外が内を駆逐する、あるいは、どこが内で、誰の内で、何が内なのか、と錯乱的に思うしかないような…そういう戦慄です。宜野湾のホテルに、弟の運転する車が到着し、爆音を聞きながら車を降りると、ホテルの方が、「普天間が近いので」とおっしゃり、ぼくは、車中、ずっと不機嫌であったことをどこか他者であり、家族以外であり、沖縄の人に恥じながら、ホテルに入ると、もう深い眠りについたというか、その日は遠出を諦めました。
 旅がつらいのではもうとうなく、快適を探すのにも飽き、それでもフカフカの布団にくるまり、ほんとに何不自由ないというフィクションを味わいながら、このまま機嫌よく帰ってなるものか、と倒錯した思いにかられ、なおかつ基地をいささか観て、感情労働なり、怒りという義務は果たしたと、あとは観光なり買い物をして、再び東京の生活に戻ればよい、という予定調和を全てぶち壊したかった、というのが内実であったかどうか。それは、一つの疑いの目であり、何かを探したかった、ということでもあったと思います。本土、ヤマトへの恨みを見つければ満足したのか、それが、ぼくの感情労働だったとしたら、薄っぺらいことこの上ないし…当事者性、自分の怒りではない怒りを生きることほど、悲しい、虚しいことがあろうか、それは感情消費とでも言うか、とにかく全ての空しさが心を満たし、自分の怒りの本質的不在、他者からの疎外を内面化した自分の不在、沖縄を商品化すればするほどかき消される何かをつかみたい欲望、そういったもので、最終日、牧志公設市場と国際通りで買い物をしたのです。
 何が欲しかったのか、とにかくいろいろ物品を買い、最後に自分らしい消費とやらを沖縄で見つけ、帰りの飛行機に乗りました。もう、ここからはアメリカは終わりだと思っていても、同じ飛行機行きのバスターミナルには誰とも知れない黒人の人たち、帰りの成田エキスプレスの前の座席には中国人と、どこまでも故郷などなく、外国が続き、自宅に帰ると、ぼくはホットモットに行って弁当を買い、自分の東京の消費に戻ったというか、つましい生活のなかの逸脱と、ささやかな贅沢でさえある買い食いと、沖縄でのリゾートの豪奢さと、いろんなものを頬張りました。
 帰って思ったのは、フランスの詩人ランボーの錯乱の詩学でした。しかし、徐々に先生の指導もあり、整理された頭脳に頭が同化して行き、原初の体験を忘れ、今にして、沖縄とは何だったのか、今、東京で感じる沖縄は何か、そういったことを感じます。
 長くなりましたが、お読み下さりありがとうございました。何も結論めいたものはありませんが、筆を置きます。








コザ観光記

旧・センター通りのチャーリー・タコスで、タコライスを食べながら、いっこく堂さんのサインを見た。ここはコザだ。沖縄市と呼ばれているが、コザだ。ついに来た、という感じがした。
 「コザの街ラプソディー」を英語に翻訳した。高校時代の英語の先生、クリス・ディクソン先生にお手伝いいただいて。コザについに来た、という感情は高まっていた。
 
 中の町、も歩いた。楽器屋の店員さんに、「中の町は近いですよー」と言われたが、詳しいことまで聞ける感じではなかった。
 コザの人たちと話したかったが、一言、二言で終わってしまう。
 たぶん、それが旅人として自然だからだろう。
 
Igalooスタジオの人とも、二、三、言葉を交わしたが、長居はせず、できずに、先輩のNさんと歩く。
 ふと入った資料館に、姜尚中先生のサインがある。
 「すべての業には時がある」、と書かれていた。
 
ぼくは那覇のジュンク堂書店で、大石直樹さんの『八重山讃歌』を見つけたときは、運命だと思ったね。
 その前に、石垣、鳩間島、西表島などを渡ってきたので、これだ!という気がした。
    
 






エトランゼ(アルバム「サバニ」より)

 「白いときは流れた」。
 おいそれと語れないものを前にして、人はたじろぐ、逃げないまでも。
 逃げられないのだ、立ち返ってくる自分からは。
 ぼくはガッジョディーロ、よそ者。
 他人の故郷への苛立ちを隠して。
 痛いほどわからない、痛いのは何か?
 ぼくの心か、体だろうか。
 全くもって、Aサインバーには行ったことがない。
 ドライなクライアウト、
 条件反射の状況判断力。
 計算高さばかりの、
やむをえず、悔しいばかりの
男をジュークボックスの向こうに見ている。
そこに放逸なバラードもかぶせられている。






運命のビーナス論 ‐網の目、魚の眼に抗して‐

縦に横にと張りめぐらされた 底引網のその網の目に 頭を突っ込んで死んだ魚の眼 
 君のそんな顔など見たくない
 
 「運命のビーナス」という歌で、ぼくはこの一行が一番グッと来ます。運命とは何なのか、それは星占いでもなく、縦に横にと張りめぐらされた、底引網のその網の目、なのではないか、とぼくは感じます。生きながらえることが肝心だろ、どんな立派な運命論よりも、という力強い一行を胸にしても、心に迫るのは運命の重み、もしこういってよければ、運命への犠牲、サクリファイス、のこと。
 ここでぼくはジョルジュ・バタイユの生贄についての論考など、こと細かく紐解いてもいいのですけど、そういう自分のなかの遊戯と学者性はむしろ今は眠らせた方が、ぼくにとってもいいでしょう。
 いかなる犠牲よりも、運命よりも、幸せを掴み、いきながらえるべきなんだ、と。
 運命とは、例えば、フロイトの言う、死への意志のようなものなのでしょうか?さらにぼくは食い下がって、引っかかって、「運命」について考えます。
 そもそも、何らかの「論」とは他者に媒介された自己と物語でもあるとぼくは解釈したいです。佐渡山豊さんのウタと自分の間にあるもの、それを探り、何か(運命かもしれません)を犠牲の祭壇、天秤にかけて、自分を引き出す、牛の(はらわた)に腕を突っこみ心臓を握り潰すように、一つの生贄を捧げること、そのことによって、聖別、聖化させること、それが運命という現実、あるいは幻、まやかし、妖かし、に迫ることではないかと。
 嘘の花嫁、には、聖なる輝きはないでしょう、ただ、しなだれた運命の流れ、それでも、確実な人生の河が流れています。しかし、嘘の花嫁の嘘は、いつまでも嘘であり続けることができるんでしょうか?ぼくは要らぬ心配をしています。そこには何か、平穏な嘘を犠牲にして流れ出してしまう犠牲、聖別、至高性、本当の運命を待ってはいないだろうか、と期待していたり…佐渡山さんの最後の一行、守ってあげようこの雨の脚、というコトバ、おそらく呟きをどう受け止めたらいいのでしょうか?ぼくは、あえて、この歌の中に内在して考えてみたい、心は脳を超えるとお釈迦様は語っておられたそうですが、たとえその通りだとしても、神も仏もこの歌の運命にはまたないのだとぼくは感じます。どんな立派な運命論よりも、立派な運命論…
Eli Eli lama Sabachthani  ―エリ エリ レマ サバクタニ。
「神よ、神よ、なぜ私を見捨て給うのか!」
 ここでぼくは初期ヘーゲルのキリスト教論なんて、繙きたい気もなくはないですが、そういうことは十万光年後でもいいのです。ぼくが見たいのは、「死んだ魚の目」にキリストの眼、悲しい涙を見ることなのだろうか…、神とか仏とか、キリスト様にお釈迦様、そうぼくには花嫁もクレオパトラもいないのだけど…
 少し、佐渡山さんの歌から話がずれてきているかもしれません。
 運命に抗することが佐渡山さんの魂ではないか、ぼくはそう感じます。誰かが言っていました、ただ生きながらえるだけではダメだ、どう生きるかなのだと。
 しかし、そういうある意味では呑気な肺や肝臓を生きるのではなく、健康な内臓を酒に浸して、それでも心だけではなく物としても人体を維持しながら、強く逞しく生きて行くことによってのみ、人に、「守ってあげよう」と言えるのではないか、と考えます。
 運命とは時間であり、身体のことなのかもしれない。産まれたときから時間も体も死に向かって運命づけられているのは始皇帝でもご存じだったはず。神仙に不老長寿の薬を求めて船を出したのも、きっとロマンス、物語だったのだろう…
 
 実は私事ですが、日付ではもう今日、ぼくの弟が結婚します。
 そのことへの祝福をもう何度もしてきたのだけど、運命は明るいということを、花嫁に感じています。弟のさざ波のように上気した声と表情にも感じます。
 運命のビーナスは全ての花嫁のことではないか、なんてお茶を濁すわけではないけれど、ラテン語でウェヌス、ウィキピディアで調べて見ました。いろんなラテン語の添え名があるなかで、少々長い説明ですが、ウェヌス・リベルティナという名前が気になりました。

ウェヌス・リベルティナ(Venus Libertina, 解放女奴隷ウェヌス)はおそらくlubentina愉快なまたは情熱的なを意味しているかもしれない)をlibertinaと間違えたローマ人による誤解から生じたウェヌスの添え名である。関連があるかもしれないのは、おそらく葬儀の女神リビティナと前述のlubentinaとの混同から生じ、リビティナとウェヌスの融合を引き起こした添え名のウェヌス・リビティナ(Venus LibitinaまたはLibentina, Libentia, Lubentina, Lubentini, Lubentiaとも呼ばれるである。エスクイリヌスの丘の神殿がウェヌス・リビティナに捧げられた。

 運命からの解放も女神によってこそなされ、死を司る女神もまた運命のビーナスと融合するように、とこしえへと若い夫婦が漕ぎ出すのを見守る思いでいます。
一つのサクリファイスとして、存在を聖別し、解放する犠牲として、「運命のヴィーナス」という歌を感じているのも、ぼくはあながち外れてはいないのではないか、と感じます。いつも戻ってくる過去を越えて行くには、悪しき運命を屠るような犠牲がいるかもしれず、幸せの予感と共に、一つの、運命のビーナス論として、この文章を閉じたく思います。お読みいただいて、ありがとうございました。



モモガルテン、佐渡山豊ライヴレポート:ぼくも人を大事にしたい。

ぼくは人を大事にしたい。自分も人に大事にしてもらったとき、生きる気持ちが湧いてくるから。大事に育てられたぼくだから、ニヒリズムとか、泥鰌とか、泥縄とか、そういうものは珍しいものとして書物のなかで出会うくらいだった。ところがぼくはヨーロッパに出会い、誰もがぼくを大事にしてくれるわけではないし、また悪意だろうが善意だろうが、この際、法律の話でもいいし、人道の話でもいいのだけど、悪意の法体系を生み出したヨーロッパというものに出会ってしまったのだ。日本にいると、ふつうでは、人は人に親切にするのが当たり前ととられていることもある。これは日本の美徳ばかりではないが……、ファイトだ、サバニ!論理を超えて、ぼくの論理など剥がれてしまう画餅かもしれないから、ぼくは音になりたい。
これくらいの前置きで、佐渡山豊さん、杉山タケルさん、そしてオープニングというか先駆けにシーサーズのお二人の、「陳情口説」、これこそ群衆の歌、民衆の歌ではないか。201459日、場所は中野の桃園、モモガルテンの瀟洒な佇まい、ぼくは中野駅の方から歩いて行ったが、東中野から歩いても行ける、中間点くらいか、時の渡し場、そういうところにあります。芸能で有名な堀越学園のすぐ側ですね。昼間行っても、ケーキなど手作りでうまく、コーヒーもおいしい、ぼくも祖母などといっしょに行くカフェですね。
さてさて、自分が長い、十分に長さと豊さを持った佐渡山さんの人との出会い、つながりのなかで、知っているのはほんの少しのことだけれど、何が大事かまた知ったことを少し書きたいと思うのです。
野に咲く花が一番好きで、名前のある立派な花が二つ目に好きだ、という那良伊千鳥さんという方の歌、これを佐渡山豊さんが歌うのにぼくは、ボーっとなってしまった。素朴などこにでもあるような親しい赤花が一番好きだけれど、スッと姿良く、名前も麗しくある人も、あっ、間違った、花も好きだというのはすごくぼくは腑に落ちたというか。2つの花が好きだ、ということにぼくは何とも慰めを見出しました。シロツメクサでも、芍薬でも、名前も姿もすぐに浮かぶぼくではないけど、名前から来るポエジーがやってきます。
そういえば、ぼくは先日、お台場の科学未来博物館に行ってきて、ぶったまげた。テクノロジーの最先端と、地球、宇宙自体に迫る美しさ、あるいは美やポエジーを超えたサイエンスのすごさに圧倒されました。佐渡山さんの歌の世界はポエジー+宇宙的なところがある、それは、叙情というもの、人の気持ちの襞、流れ以上に、宇宙規模の生命を感じさせます。だからこその、ファイトだ!サバニ!でもあるわけで。
ぼくは途中から左目からも右目からも涙が滲むようで、少し目を拭いながら聴いていました。自然、心も和んで、顔が元気になっていると言われました。「少しずつ、少しずつ、朝が来る」という歌を口ずさめたときも、本当に長い苦節10余年からの雪解けを感じつつある昨今、ぼくは本当に少しずつ朝が来ているのを実感したのです。
ボブ・ディランの歌を日本語で、ディランの精神を日本語で歌った変奏、これはほんと、バッハのシュニトケ作曲カデンツァが好きなぼくには、驚き以上にあまりにすんなりディランの精神を佐渡山さんが生きてらっしゃる、歌ってらっしゃるので、ほんとに翻訳だけじゃないんだ、と新たな創造の可能性、広がりを見せていただいた、というか。
民衆の歌は人々のものであって、どこかの会社や協会の歌ではないのだけれど、それでも歌を買ったり、売ったりする人がいて、落陽の紙価を高からしむる以上に、さらなる詩や歌の搾取もあって、ぼくは心の問題、歌の問題ではやはり不自由にはなりたくない、そのことを切に感じるのですね。
だから歌について語ること自体をプロテストするというか、それでも伝えたいことだけ書くというのが自分のスタンス、心の動きでもあるわけだけど、この日のぼくの両目は少し涙に濡れたのです。ぼくは人を大事にしたい。人類館に人を陳列したような錯覚の人間観には陥りたくない。なんでぼくの好きなヨーロッパはあんなに心凍てつくことをするのか、万国博?F××k that crap,万国博に行くよりも、セネガルでもモンゴルでも旅すればいいんだよ!彼らは笑っているよ、ぼくらには通じない悲しみで。そういうぼく自身があまり旅には出ないのだけれど、みんな日本でもぼくを大事にしてくれるから、早く病気を落ち着けて、旅にまた出たいな、なんて思います。無く子が黙ったら地頭は要らない、英語で全部通じるなら外語大要らない!万国博のガラス宮ができた頃、ロシアではドストエフスキーが『地下室の手記』を書いていた。文明開化、白み、味気なさ、ザンギリ頭よりドレッドヘアー、もうここまで来たら市民生活も楽しくてしょうがないような、制服の自由化、自由経済の非搾取……そいつをもうずっと考えていて、気づいたら自分が有閑階級の端くれで労働を拒んでた、実に笑えない話。佐渡山さんが、小学生の頃から新聞配達をコザの吉原でしていた年頃、ぼくは、おかあさんの肩をトントンたたいていたわけでもない。ぼくは人を大事にしたい?本当にそれができていればいいのだけど。

A qui est-ce que je voulais donner la change? Aux autres ou au moi même?
誰にぼくは変わって下さいとお願いしたかったのか?彼らにだろうか、それとも、ぼく自身が変わりたかったのだろうか?

このアラゴンの詩の自問はまだぼくを惹きつけてやまない。たぶん、ずっとそうだろう、誰を、何を変えたかったのか、彼らを、それとも自分自身を?
 答えることが肝心なんじゃない、どんな立派な運命論よりも、確かな朝が白み始めた。宇宙はまだ存在している、ぼく自身の意識よりもずっと確かに。だから、終末論とか、最後の晩餐とか、地球外隕石による地球の損壊とか、恐竜の死滅とか、いちいち信じないでいいな。何かライヴレポートには中途半端ですが、パリからの友人がパリに帰って、心が荒んだのを治してもらいました。もう一度、人がぼくにして下さったように、ぼくも人を大事にしたい。以上です。ありがとうございました。
 


 佐渡山豊、フォークに非ず!

元々、地下大学と平井玄さんへの応答として書いた、佐渡山豊さんは、フォークだけじゃないという文章です。

佐渡山豊さんを、フォーク、ロックの枠組みに押し込めてしまうのは、もったいないことだ、というのがぼくの考えです。演歌だけでも、琉歌でもない、ラップでもあるだろうし、ちゃんぷるーでありつつ、形式美からの自己表出というか、創造的な音楽です。
そもそも、自己表出でしかない音楽から形式美を取り払ったら、それこそメルトダウンでしかない。形式美は大事に守りつつ、そこから、クラシックからジャズの世界へどう行くか、その道筋と課題は佐渡山さんにおいては、常にといっていいかわかりませんが、ジャズとして、歌詞も歌うたびに変容するのです。
 そして、ヤマトから押しつけられた、お仕着せの沖縄ではなく、佐渡山豊としての自我、というか、表現が本来の音楽‐存在なのであって、沖縄を言い過ぎるのは佐渡山さんご本人にとっても暴力であるとぼくは思います。「無知は暴力である、悔しき暴力である」と友川カズキさんの歌にもありますが、沖縄への無知は暴力としてまず我々を存在させざるをえない、そう思いますね。
 また労働者としても、一級建築士の資格をお持ちで、米軍基地で働いた経験もあり、英検1級もお持ちです。労働者としての適性、生き抜く、プロとしての音楽を封印しても、労働者としての佐渡山さんには、時代を生き抜く覚悟があったと思います。
 非‐正規労働、=無能では断じてありませんし、そんなことならぼくはそれこそ「存在」、存在していること、に匙を投げます。もっとも、いくら捨てた気になっても、ついてくるのが命と人生かもしれません。佐渡山さんが歌を一度は断念したのは、ぼくは、ヤマト、沖縄、二重からの佐渡山さんへの暴力、差別があったからではないか、それに押し潰された面もあるのではないか、だからこそ、北海道への「逃避行」もあり、また沖縄への「帰還」もあったのではないか、とぼくは想像します。「お前は沖縄だ!」という暴力に抗して、「さよなら沖縄」というアルバムもあるのかもしれませんし。
 それと最後に、佐渡山さんの「つむじ風」という最新アルバムについてなのですが、これは形式美、「幽玄」(ヤマト古語でいえば)、沖縄の言葉で該当する言葉を知りませんが、「ミルクユ(弥勒世)」なんてくとぅば(言葉)はどうかと思います。それまでの佐渡山豊さんの形式美が表にグッと出てきて、自我、我であることの苦みが凝縮された、佐渡山さん「後期」における金字塔であり、分水嶺であり、旅人にとっては山の尾根、峠の辺りではないか、佐渡山さんは存在の向こう側を見て戻ってきたのか、それとも、向こうに行ってしまうんではないか、という危惧さえ抱かせる、そんな一枚ですね。
 ここでぼくは、「つむじ風」についての2つの文章をリンクでご紹介したいと思います。

一つはルリヲ・フルチくんという沖縄に帰還した青年が書いた「つむじ風」のライナーノート、「8年ぶりのドゥチュイムニイ(独り言)」です。

もう一つは、私が書いた、「つむじ風、佐渡山豊論:Being there. そこにいること。」
という、詩のような文章ですね。

佐渡山さんへのいろんな思いはファンの間でもありますが、ルリヲくんの文章は佐渡山さんの心に響いたものでしょうし、拙文は、私の思いを込めてあります。

ほんのイントロダクションとして、佐渡山豊のご紹介で、今の佐渡山豊も、昔の歌を引っさげただけでなく、常に新たに生成し続け、すごいですよ、というご案内です。



澄んだ湖

知れよ、面白いから笑ふので、笑ふので面白いのではない。面白い所では人は寧ろニガムシつぶしたやうな表情をする。やがてにつこりするのだが、ニガムシつぶしてゐる所が芸術世界で、笑ふ所はもう生活世界だと云へる。(中原中也)

 You should know, we laugh because it’s funny and it’s not that we get fun because we laugh. Where we find fun, our face is rather bitter and then turn smile; when our face is bitter it’s the world of fine art, and when we smile it’s already our living life time.
(Chuya Nakahara, poet)

佐渡山さんにある質問を投げかけたら、一瞬表情が止まって、ずっと遠くを見るような澄んだ表情になり、やがて穏やかにニッコリした。その間、ずっとぼくは佐渡山さんの目の奥を見ていた。佐渡山さんは人を拒まないんだなとそのとき思った。虚を突かれたような表情から笑顔まで、嫌悪や怒りは一瞬もなかった。
ぼくは中原中也が好きだった、嫌いになったことはない。しかし、いつしか、彼の病んで死に至る病と自分は距離を置いた。汚れつちまつた悲しみに、という詩もいつしか忘れていた。人はほんとに芸術世界を離れて生活世界へと心を汚してしまう。そのことを自分にも感じたが、それが苦虫にならない澄んだ表情に、自分は虚心というか、また佐渡山さんの原風景、心の素直さ、驚きの虚心を感じた。澄んだ湖の底を見るような表情だった。また一つ、心に残った。ぼくの心の写真機に。










李箱の鏡と佐渡山豊の鏡、試論

私が朝鮮文学をあまり読めないのは、それが錐のように鋭く、あまりに文学が発達し過ぎているのではないか、と感じるからである。これは生身で血が出る文学なのだ、というのが、私にノートへの書き写しや、引用を躊躇させる原因である。金時鐘の日本語詩、あるいは金芝河の詩ですら、あまりノートに書いたことはないのに、李箱、そしてこちらは好きなのだが、韓龍雲の詩はもう筆写を赦さない、これはもう本として持っておくしかない。そう感じさせるものがある。朝鮮文学を前にすれば、ドン・キホーテ自体がドン・キホーテであり、遅すぎる、鈍すぎる、何も言っていない、作品ではない、と罵倒したくなる。また、トルストイの長編小説にしてみても、あまりに優雅でその味わいはもう高校時代に封印して、読み直せば、たぶん失望しか感じないのではないだろうか?朝鮮文学は錐のようだ、と感じるが、例えば、以下のようである。

 鏡の中には音がないです
 あんなにまでしづかな世の中はほんたうにないでせう
 鏡のなかでもわたしには耳があります
 わたしのことばを聴き取れないあはれな耳がふたつもあります
 鏡のなかのわたしはぎつちよです
 わたしの握手を受け取ることのできない……握手を知らないぎつちよです
 …      
 李箱(イ・サン)「鏡」(一九三三)

 この詩を途中まで引用しただけで、私は書き出すことを断念してしまった。あまりに見え過ぎ、あまりに傷であり、逃げようがないなかを、逃げるとはどういうことか、東京で客死(獄死に近い)した詩人の彷徨が痛ましい。社会は天才なんて厚遇しないのだ。朝鮮文学を読めないのは、あまりに優れ、あまりに独自の音であると感じるからだ。翻訳を通しても、それは日本語にはない音だと思う。
 
先日、友人から以下のメッセージをもらった。

「あなたの写る鏡にも僕らの時代は見えますか
僕らの写る鏡にもあなたの歌が聴こえます」
最近「♪わったー島やうちなーぬ」の前のこの言葉を想ってます。
ここの「僕ら」って「誰」なのか、「あなた」は「誰」なのか
そして、その後から始まるドゥチュイムニィという曲。

これは佐渡山豊さんの歌の一節だ。「鏡」が出てくる。李箱は、鏡のなかには音がない、と喝破した。だから怖いのだ。李箱には希望がない、と私には思える。希望も絶望も虚妄だとしても、絶望の方が遥かに現実に見える。その怖さ。李箱に較べれば、佐渡山さんも、まだ絶望していない、というべきか?植民地朝鮮のハイブリッド空間、京城の温度、音、歯軋り、やはり怖さ。ぼくはこれ以上引用しない。(未完)


 よろんの里

ライヴの感想を手書きで書きたくなった。
 どうせ後でパソコンで打つにせよ、ゆっくりと書くことを味わいたかった。
 ライヴの次の日、法事の帰りに、銀座のわしたSHOPで佐渡山さんのCDを買った。
 「存在」というアルバム、昨日Yさんにその存在を聞いたアルバムだ。
 さっきからアルバムと書こうとして、アラバマと書きそうになる、
 アラバマには行ったことがない。
 余計な文のリズムかもしれない、さて、
 2013.5.31椎名町、よろんの里ライヴの様子を書きたい。
 五月病も最後の日、池袋から西武池袋線で一駅、駅のすぐ近く、踏切の前によろんの里はある。近くに公園があり、犬と子どもが遊んでいる、大人も憩っている。
 ぼくはライヴの日はほとんど本を読まない、姜尚中先生の小説を少し読んだくらいで、早々に電車に乗った。
 もう一日の未知と出会う設計は出来ている。
 ガラガラ、ガラリンコ、扉を開ける、さあ、ライヴ開場だ!
 入ってしまうと、もう流れのなかだ、ビールを飲んで、ジーマミー豆腐、泡盛、そしてその後はお楽しみが待っていた。
 しかし、ライヴのことを書かなければ。

 それはまさに安心のステージだった。
 聴きたい歌が聴け、ヤキモキしないで済む日。
 目の前の最前列の座敷の席で、ぼくは飲みかつ聴いた。
 隣は、かのルリヲ・フルチ氏、前には沖縄出身のKさん、
 ステージは、ギター、ぼくも大ファンの杉山さん、
 そして、佐渡山豊! 酔ってなくても親しいぼくらの親分だ。

 アルバム、「つむじ風」から渋い歌の数々、 
 曲順なんて憶えていない、それがライヴだ。
 記録でなく記憶とはよくいったものだ。
 ぼくにとっては確かめる、何かを確かめる、安心の時間だった。
 自分の翻訳を確かめるために歌を聴いているような、
 歌が理屈を抜け出すまでの心の時間、
 これが熱するまでのぼくの時間だ。 
 It’s o.k. we don’t have a CD, we talk about it later,
  やがて酔うと喋りたいフランス語、
 クドウシズカのnumero 38 trente-huit!
  よろんの里の献奉、有泉をしこたまいただいたのは、ライヴ後だが。
 ぼくはドゥチュイムニィは自分でも歌う。
 もうライヴ中でも口が勝手に動く。
 定番の一曲、歌だが、
 ずっとこの歌を歌っている人がいることを知っている。
 カラオケでも歌っている。
 手拍子?Fat man’s joke!
  私は歌いたいのだ。
 眠い、クドウシズカが好きだという人に、
 杯一杯の焼酎を次々、
 4,5杯いただいた。
 酒は好きだ、スカッとする。
 いつも佐渡山さんといられるわけではない、
 だけど、いっしょにいられる安心感、
 親しさ、楽しさ、ほめられたい、
 いろんなボジティブな感情と意図。
 時代を切ることだけが、肝心なんじゃない。
 自分のドゥチュイムニィ(独り言)が大事なんだと、
 佐渡山さんはルリヲ君の出した答えに深く頷いていた。
 (アルバム「つむじ風」ライナーノート参照)

 さて、紙数が尽きたわけではないが、
 佐渡山さんが聴きたければ、
 歌や声と響き合いたいなら、
 ライヴに行こう。
 それだけなのだ、
 それだけが全てで、
 全てが一つなのだ、
 佐渡山さんに会うこと、
 この贅沢で、安心な時間。
 それがよろんの里の夜だった。



 佐渡山豊、末期の眼, La contemplation

 見つめ続けてきた魂。天国も地獄も味わいながら、この世の酸いも甘いも噛み砕きながら。そうやって佐渡山さんは生きてきてらした、生きてきたのだろう。
 底抜けの優しさは、どこよりも深い井戸から汲み上げた怒りの結晶。遠国(オンゴク)と広島の方の方言には言葉があるが、沖縄、琉球、コザ、そして私ならオンゴクとはどこだろうか?東京、あるいは居留地パリ、あるいはモンゴルの草原…
 
 毎日が偶然に過ぎない。
 「あいかわらずの朝が来て、あいかわらずの夜が!」(「ひまわり」)
 
アルバム「つむじ風」にいたるまで、ひとつ前のアルバム「時間のカケラ」、佐渡山さんの深度、心の鉱脈は静けさを加え、凄みを増している。黄泉の国、ニライカナイ、西方浄土から届いたような、そんなアルバムだ。
 小説に本当のことを書くという不躾、ラヴソングを世間に発表する照れくささ、全部二流のたわごとだ。
 佐渡山さんが歌い、生きていらっしゃる時間、もう届けなければならない言葉、心がある。あなたには友がいた、友がいる。そして歌を作り、歌い、人びとをつないでいった。あなたが歌を止めていたときに、私は生まれた。1980年生まれ、南無妙法蓮華経。
 静岡の蓮華寺池公園をふいに思い出した。犬を連れて歩いた。
 「妻ですから、」と可憐なことを言っていた人ももういない。諸行無常、風の使いが、つむじ風を連れてきた。アリゾナ、那覇、トキョー、へと。
 ヒルトンのビュッフェで、マスカルポーネ・チーズとクラッカーとメロンをかきこみながら、ぼくは旅行社の仕事をしていた。いつの間にか、時間のカケラを見失って、ぼくはその場に佇んでいた。地下のカフェでアイスコーヒー、夏をしのぎながら。
 
ウランバートル行きのチケットが買いたくて、一夏を働いた。あと2秒で、オンライン予約ができるところで、女から断りのメールが来た。ぼくはパソコンを閉じて、預金通帳はもうラブレターではなくなった。
 アニータがマダガスカルでガラケーを弄るとき、いじめられたイジリー岡田が、中学生と肩を組んで歩いた。そんな心象風景、フィクションを、妄想、妄言として浮かばせながら、長良川を渡ったり、高校生のながら勉強を叱ったり。
 佐渡山さんに夏の報告をしようというのでもない、深夜のお下劣番組、ギルガメッシュナイトが一部BSで復活しているのをぼくは唖然と見ていた。
 海の向こうもネットでは一つ、スターになった恋人の半裸合成写真が出回った。
誰かの悪意が花咲いて、地獄の秋も白み、色づき、誰かが溜飲を下げたのかもしれない。こんな経験、積みたくなかった。
 強く生きるのは時には罪だ。誰かを裁かずに、そういうものだとのみこんでしまう。青大将、ハブや、エボラ出血熱。「すべての悪事を懺悔せよ」(「薄情な風」)

I walk, I walk till the end.


 自分自身のドゥチュイムニィ‐千の岡を越えて‐

 夜中の三分の一は起きていてもいい、というようなことを釈迦が語っていたそうだから、夜中に目が覚めたとき、音楽を聴いたりしている。
 病院の暗闇の中で、金縛りに遇ったときなど、少し落ち着きたい。
 つかれが溜まっているのだろうか?
 ボブ・ディランも聴くし、6,7枚持ってきたCDのなかからその時の気分で聴いている。
 佐渡山豊論の中でも、直球で、論じたくないときもある。正攻法でなく、搦め手から攻めたい、というか。どうにもそういう文章が多い気がする。そういえば、ドゥチュイムニィという代表曲について書いたことがないし、あえてこの歌を論じる力量を示したい、という勇気もなかった。かろうじて、その勇気のようなものが芽生えたとしたら、やはりそれだけの「暇」がある、という外因が大きいだろうか。
 ルリヲ・フルチ氏の「八年目のドゥチュイムニィ」をよく読むと、お追従と科学は別だ、という気がしてくる。つまり文科と理科と2つに分けて単純化すること、それも一つの手ではあるが、自分の文章がややおべっか調になってしまうだらしなさがあるのに対し、ルリヲ氏の文章は凛としている。この論は科学でもなければ文科でもない。マブイだ。
それに習って自分が、「ドゥチュイムニィ」の科学分析なんて意味がない、というわけではない。しかし、文化として聴くならば、(それしか自分はできないのだが)、「ドゥチュイムニィ」について嘘みたいな本音、自分の音、歌を出すしかない。
 
 そう思っていたら、病院にルリヲ氏から手紙が届いた。厳しい現実を共有している、とまでは烏滸がましくて言えないが、「自分は安全な所にいる」という「不安」は少し薄れて、少しだけ距離が縮まる。だからこそ手紙も来やすいのではないか、と考えたりもする。
 辺野古の海を、見て巡るツアーの話を読んだ。入院中、猛々しい話はあまり読みたくない気もしたが、どんなにソフトに書いても、心の傷の部分に触れてしまう内容だ。
 自分の過去から「良心」のカケラたちが点滅する。
 この病院に自分がいるのは、自分の安全のためだ。処理しきれない暴発か、そのストレスの一線で芸術が生まれるのか……
 
ぼくはもう文筆のプロになるって決めたんだ。
 
自分の根っこの部分、日本の根っこより深く、自分の底。
 例え時間がかかっても、プロでやっていく覚悟、それが佐渡山さんの「ドゥチュイムニィ」」ではないか!なれずもの、半端者にはなりたくない!
 
 ※
 主治医には「過程、プロセスを大事に、」ゆっくりと進めとアドバイスをいただいた。
 
人が一人、人に敬意を表す、それだけでいい。
 自同律の不快、「私ハ私ダ、」の他に何があるのか?
 他者がいる。
 敬意というのは、自分の外に出て行くこと、その可能性として捉えたい。
 全ての文は、全ての文脈に連なっている。千の谷、千の岡。
 唯一の言語は、イエス、ですらなく、ノー、があって、イエスがあるのだ。
 言語は教科書ではなく、流体だ。
 細胞膜の研究なんて今さらできない、科学は分業で、芸術家は偶然の発見ではなく、「芸術」を担うのか、何だかつまらないな……
 
そういったものを全て超えて行くパルプンテ、という呪文。
 それが言語であり、歌でもあるのだろう。


もっと先にあるもの(「野底マーペー」)

Voir plus loin qu’il,もっと遠くを見ろ、とアラゴンは歌った。
-          Plus loin que soi. 自分自身よりももっと遠くへ。

 その先を考えることに、何があるか、ぼくは考えない。
 その先には、マーペーの岩の向こうには、黒島よりも、もっと先に、平原や大海原や海溝や、島々や、島影、……
その他にももっとある。島と島との間、海峡や何かも。
 
「もっと遠くへ」は考えない、もっと近くでもなく、
 走って行く空間や風景をぼくはどんな風に見ているのだろう。

 さて恋の岩マーペーとカニムイの記憶、実在、幻、幻影。

 岩がある、それだけではないか!

 さて、幻影、妄想はいいとして、まやかしはあやかしにもならず、イザヤを繙く暇なく、情報産業の向こうに詩を届けるのではなく、ただ鈍色の銅貨に責任を持ち、Cut that bull shit, why you won’t talk to me? Why?
 マーペーとの口論か、マーペーとカニムイはケンカするほど何かを恐れなかったか?
 「トリスタンとイゾルテ」、triste et isolé,悲しみと孤立か。
 歴史はカニムイを沈黙させ、マーペーの沈黙を岩と見るのか。
 
 一つの出来事が終わった。
 石清水のヘディングと、なでしこの思い出。
 ぼくは何を見て来たのだろうか?
 さて、はて。

 ※
 Aに必要な歌は、Bに必要になる。
 Aは歌を介して、Bに伝わる。
 A≒B、
 AはBと結ばれるだろうか。


 稲妻からの自立支援 -佐渡山豊さんからの一言を縁に-


自分が何に傷つき、何に喜ぶのか、ということに気づけるように、一体何が大事なんだろう?
 佐渡山さんに自分の入院と退院をマネージャーさん伝手に、知らせていただき、手紙も書かせていただいたが、

 「何かこまったことはないかな?」

 と言ってくださったらしく、それだけでぼくはスクッと背筋を伸ばせた。
 Care Cure, ケアとキュア、気遣いと治癒、
 人が気遣ってくれるから自ら立てるのだ。

 その逆ではないだろう、「天は自ら助く者を助く」だけではなく、
 気遣ってくださるから活きるのだ。

 ぼくは大事ないただいたメールはプリントアウトせず、記憶に叩きこむ。
 証拠は文書でも法定でもない。
 マブイ、魂がなかったら終わりだ。

 昨年
 Kowai?
 と、メールが来て、
「大丈夫、こわくないよ!」
 と、返信した。これもまた一つの「自立支援」。

 
入るまでに月はながめつ稲妻のひかりの間にも物思ふ身の(藤原家隆)
Clair lune, en éclair! Dansant mes ideés au milieu.(仏語訳)


あとがき

  諡(おくりな)を書きたいんじゃない。史官ではないし、生きているうちに伝えることを書き、その後には何も残らなくてもいい。ベリーダンス・ミュージックを聴いている。生きていることは肯定だ、エラン・ヴィタル、躍動する生。佐渡山豊さんのつむじ風の一曲目、「生きていて欲しいんだ」それ以外に何があるか?
  親戚にインタビューしたからって、構造主義と退けるわけじゃない。それで本が書けるか、本は書けても手紙は書けるか?ああ、今ぼくは大学でいえば、卒論相当じゃなくて、修論相当の文章を書きたいんだなと思います。卒論相当はフランスの移民達に捧げた。それはそれで完成していた。次に、こちゃこちゃ書いてきたけれど、どれも書き上げることができなかったのは、魂、マブイがなかったから。死ぬ勇気がなくて、鏡越しに深紅の腕を眺めた。自分の不幸の底はそこにあったのだが、死ねない人の魂はどんなものだろう。ゲゲゲの鬼太郎も何となく読んでいる。もう、他の人の引用、詩はいいな、ええやろ、と思う。電流が嗤うように、エレキに痺れる、そういうことも少しは味わった。あまつさえ建築士になろうと思ったことさえある。佐渡山さんのことを知る、ために、2級建築士の教科書まで買ったはずはなくて、ただそういう道もあるかと思っただけで、2週間後には忘れた。ただ資料にはなったかもしれないけど、ぼくは研究したいのではないし。
 最初は手書きで書かなきゃとか些末なことにこだわったまま、3年過ぎた。石の上にも3年。自分は詩しか書けないと思ってきたが、自分を捨てれば書けるのである。おくりなも、灯籠流しも要らない。今、ここで書かないと。この電流が、脳波が通るのを待っていた。何も観るのではない、observeではない、fight and win. それだけの人生じゃないですか?傷から噴き出す血もあれば、傷痕はやがてケロイド状に閉じる。
 Preserve,保持するための歴史じゃない。ぼくにとって今、一番大事なこと、それは本じゃない。通う電流、脳波一つに自分も賭かっている!順序立って書くだけの時制、歴史意識、本のなかでは学べない。全てエレクトリック、波動。十万年先に十万円上げるよ、と原発の連中が嘯いている、こういう政治意識だって、佐渡山さんは拒まないはずだ。
 今までのラフスケッチから救い出せるものもあるかもしれないけど、この電流のライヴにしか何もないはず。そして、ここで少し冷静になろう。今まで書いたものを否定するのではない。それを纏め上げるんだって。ああこれは、あとがきか?レジュメか。
 今まで書いたものの編纂し、お届けしました。
           
                                          2017/9/24
                                          
                                          東 和史

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見たことのない海が見える(佐渡山豊、アコパ・ライヴレポート)

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