2016年11月27日日曜日

狸の街                             



「その植民地には、たぬきが一匹、11世紀にいたくらいで、その後にも人は一人もいませんでした。」
 彼女は静かに言った。囲炉裏に火をくべながら。
 
雨の日の川べりを老人がとぼとぼと歩いていた。
爆竹の爆ぜる音がした。
 ぼくがモンペリエの街についた日も、黒人の若者が爆竹を夜の11時頃、鳴らしていた。懐かしい日々、過去は過去、歴史としてそこから教訓でも取り出す用しかない。モノプリの店舗のパン屋で、パン・オ・レザン(レーズンパン)を買って食べた。フランス語の単純過去、という文法表現は、もはや固定した過去としての物語があり、それを記述するときにしかほとんど使わない。そのことの意味もよくわからないでいた。

T大学の大学院入試の面接では、口頭試問ですぐに訳せなかった。試験に落ちた敗北感もあったかもしれないが、どこか意固地にその後、植民地主義は終わっていない、などと自分に言い聞かせていた。
 
これから長い物語になるかもしれない。上手く整理できることばかりが過去ではないのだが、その必要を少し感じるのだ。
 
この街に降り立ったのは、つまり自分の仮想空間であるような一つの「植民地」に出会ったのは、ふと眠りのなかの夢の切れ端を縁にしている。
 地中海やサントロぺ、アメリカの東海岸にあるだとか、そういった描写はできない。けれど、やはり地中海の現在フランスの領土のどこかに、その遺跡というか、ローマ時代から続くような、タヌキの街はあるのではないか。
 その街で話された言語も、古代・中世世界においては、現代フランス語であるわけがなく、オック語だとか、マルセイユからペルピニャンの間にその街もあるのだろう。あるいは、地中海の小さな島や半島にそのタヌキは住んでいたのだろうか?
 
モンペリエ滞在中は、ドイツ人の研修医の友人たちが、語学学校の縁で、いろいろな所に連れて行ってくれた。山の上の古城だとか、聖者、隠者の建てた寺院、お堂だとか…秘境のような小さな村にも、足跡を伸ばせた。彼らは本当に物事が分かった人たちで、三十歳手前のいい人たちだった。話は現実と仮想を漂うのかもしれないが、タヌキの街は、そういった夢想のなかから、旅の目的地、理想郷、エルドラドなのかもしれない。
 
まずそのタヌキを探さなければならない。そのタヌキは人語を解し、古代言語から人間が翻訳したものかもしれないが、一冊の手記がひっそりとパリの本屋で眠っていた。
バスクから、ペイ・ド・オック、現在のスペイン、かつてのアラゴン王国から、南仏を通って、マルセイユ、コート・ダジュール、そしてイタリア半島まで、どうやらそのあたりに「タヌキ」は暮らしていたらしいことが分かる。

ミラノからジェノヴァに出て、モンペリエに帰る途中、二等車のコンパウンド、客車の中だった。鮮やかなヴァイオレットのセーターを着て彼女は座っていた。ぼくが、日本人の旅行客と話している間、彼女はコンパウンドを出て、廊下で海を見ていた。
 どうやって、話しかけたか、何を言ったかもう15年前のことで憶えていないが、ふと列車をニースで降りた。いっしょに旅をしたとまで言えないが、彼女の国の通貨危機の話をしたり、フランスでの自分の1年間の研鑽から解放されての旅に、彼女とモナコのカジノ見学に行ったり、静かな夜を歩けた。
 ぼくがあまりに無造作に歩くので、車にぶつかるんじゃないかと、腕を取って注意してくれたりした。ニースの街並みを見下ろす小高い丘で、彼女のカメラで彼女の写真を撮った。
 
そのたった二日間がタヌキの街との出会いだったのだろうか。
 廊下の角を曲がるとシャワー室から出てきた彼女と目が合った。
 帰国して一年、発狂していたぼくはドラえもんのような公園にいて、地中を叩けばそこがアルゼンチンだと喜悦していた。

ぼくは街を夢想する。
初めて小説を書いたのは大学1年生のとき、桃源郷を目指して森の中に入ったら、道が分かれていて、そこで迷ってしまい、そこで小説の着想も内破してしまった。
 酒呑童子とか、そういう日本における異物、歪な何かに惹かれていた。その時から、ぼくの内面世界は外界を求めてさまよっていたのか。
 その森の道は、タヌキの街へ続いていたのだろうか?
 いくつもの疑問に答える術は小説のなかにしかないのかもしれない…


 

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