2016年3月26日土曜日

書くことのコーヒーの比喩


 コーヒーを豆を挽くところからの論文は書いていない。一応、若いときにルソーは日本語で読んだけど、ルソーそのものから書けない。豆を挽いてもらったような1950年代の論文からが自分の領分。あくまで挽いてもらったものをベースに淹れる論文。豆は選ぶけど、自分では挽く能力がまだない。
 高校生の時は自由だから、日本語訳のルソーを引用したり、青い豆を焙煎もせずに何か書いたつもりだった。それでもいいとは思う。
 だけど、後は好みの問題というより、他の人がのみたい、読みたいと思うことが半分くらいは大事。
 まだまだ自分の論文は書けていない。
 そういえば、21歳くらいに入院中に書いた小説は、なぜ自分は小説が書けないか、ということがテーマでそれはそれでおもしろかった。あくまで、自分のコーヒーを自分で飲む程度のことだったが。
 インスタントこれも悪くはないが、ブログレベルだ。
 先日、作曲から楽器作りに行ってそこで15年、でもやっぱり音を作ることが大事だ、という方とお話した。
 ぼくは哲学に行ったのは認識論にではなかったが、人間の考える可能性の条件という道具作りに拘泥した時期が長かったのかもしれない。
 ぼくは、音が大事だ、言葉が大事だ、とまで定めているだろうか?昔は定めてそこで病んだ。
 いわばコーヒーを淹れる100円ショップのソーサーなのか、もっと立派の陶器のやつなのか、というところまで行ってしまっていたのだろうか?
 自分に納得のいくコーヒーを人にものんでもらえる、道は続くが、人に出すようにはなった。その先に、売れるか?ということはある。
 コーヒーでお店を、カフェということは考えないが、いつか文筆で、という夢は捨てないことにする。

2016年3月20日日曜日

カミール・パーリア「レイプ論争」を読む。

  旅行仕事をしていたときに、トルコ人のガイドさんと話をしていた。
 「結婚もしていないし、子どももいない。」と言うと、
 「ユーハブチャンス!」とウインクしてくれた。
 
これはただのイントロかもしれない。ひとまず、女のいない男、あるいは男たちについて書いて考えてみたい。そこに何か大事な自立の儀式、のようなものがある気がするのだ。江戸時代などなら、若衆宿、というボーイスカウトみたいなのがあったそうだが、現代では高校サッカー部とかがそうなのかもしれないな。高校球児は眩しい!と女たちは言うのである。

 
 しかし、カミール・パーリアのレイプ論争を読むまでは、ぼくはことの真相、性について何も知ることがなかった、と言える。そしてもう語るべきことはない、読むと同時に理解したのだ。獣性、huntingは確かに男である自分の中にもある。それをいかに文明、文化で飼い慣らそうが、これはある。そのことを自覚することで、指先にも、全身に血が巡った。真に自分の暴力性を自覚すること、女に怯えることがまた暴力を引き起こすこと、その戦慄すべき自覚がある。

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   一応、ぼくたちはクラス分けテストを受けている。  それぞれが違う学校にも通ってきた。  いい塾があり、いい学校があり、その先にもいい会社がある。  「つまらない」とぼくは旅に出た。父親の許しを得て。  好きだった恋人とも離れ、「つらいだろう」と父は...