2015年12月7日月曜日

見たことのない海が見える(佐渡山豊、アコパ・ライヴレポート)

 

 一応、ぼくたちはクラス分けテストを受けている。
 それぞれが違う学校にも通ってきた。
 いい塾があり、いい学校があり、その先にもいい会社がある。
 「つまらない」とぼくは旅に出た。父親の許しを得て。
 好きだった恋人とも離れ、「つらいだろう」と父は理解を示して、フランス行きが決まったのが、20歳の頃。今、35歳。
 かつての恋人は、ぼくがパリに何年もいたのだろうと思っていたらしい。「Tokyo?」と聞かれた。
 黒磯のビーチ、クロイツェルソナタ……
 
 さて、それはどうでもいい話だ。
 小田急線の相模大野、アコパ。アコースティック・パフォーマンスだろうか。そこに佐渡山豊さんが、夕方6時開場でいらっしゃるということで、久々に小田急線、母と祖母を連れて乗った。
 ちょっとした旅行気分だ。
 ぼくは結婚をしたかった口の人間で、小田急線で静岡まで通っていたこともあり、町田に好きな人がいたこともある。相模大野にも静岡銀行、シズギンの支店があった。
 ぼくらはクラス分けテストを受けている。
 「郊外都市」について、東大の先生が本を書いていた。ぼくの住む中野とも光景がだいぶ違う。立川、川崎に少し似ている。都市作りなんてぼくには分からないけれど、でっかい本屋のある街で、ぼくは哲学の棚を見ると、その街の底力が見える気がするのだ。
 階級こそが、昨今の自分のテーマ、基底音だ。
 フーガの技法、なんて習えば、シンデレラ……
 学習塾の教師である自分は、いいクラスに生徒を入れてあげるのが仕事だ。

 長々と昼の1時頃から、5時間、相模大野を歩いたり、坐ったりして、アコパの会場に行った。


 佐渡山さんが、カウンターにいらしたので、声をかけたが、集中されているのか、反応がなかったところ、頼子さんが声をかけて下さって、佐渡山さんに気づいていただけた。
 毎回の挨拶がぎこちないのは何だろうか?
 お互いが声を出す前にある、ぼくの側からの緊張感。
 クラスを越える音楽の時間に、すーっとぼくは編入したい。
 
 ランボーの話をした。詩、太陽に嫉妬したランボーについて佐渡山さんは喋って下さった。ライヴの気持ちは高まったみたいだった。

 ぼくは今日のこのライヴを文字に写そうと思った。それはもう、会場入りする前から、ベンヤミンの批評理論を読んだり、入念に準備してきた。
 時よ、飛光よ、アコパの会場はクリスマスの飾り付け、駅前のイルミナシオン(電飾)クリスマスツリーが印象深かった。そう、クリスマスなのである。
 Douceur, あまやかさ、優しさ、そしてsourire はにかみ、ほほえみ。アコパの常連のミュージシャンたちの演奏はどこかコミカルで、そして藤沢のストリームは、しっとりと歌っていた。ぼくは、貝のように押し黙って聴いていた。音楽が聴きたいから、ビールも一杯だけ(すみません……)
 Splendid! 何かがジリジリと来て、弾けた。
 階級社会にぼくらはいないのである。
 階級のあるところに人間はいない。
 あるのは「ブロック塀の割れ目に、伝う羊歯(しだ)やルーツ」、ヒューマンチェーン、沖縄、そう辺野古だ。
 
 佐渡山さんが歌いだした。ギター、杉山タケル。
 静かに語り出した「海どろぼう」。声が小さいのは、それと聴いて欲しいからか。その強弱でなければ伝わらない音声の力加減、海が見える。
 ベンヤミンは、批評の対象である自然と表現する言葉は別であるという。表現自体が鏡ではなく、表現自体も自然でもあり、有機的な展開を持つ。
 だとして批評は遅すぎる。それが出たときには音楽は聴衆と共にとっくに遠くにいるのだ。
 血圧は大音声だとたしかに高いだろうが、押し殺した声にも、(のう)の静止時のように、最大化された心拍数はあるかもしれない。薪能の能の話だが。
 
 潮干狩りした、海だった。
 情景、心象風景と自然、実際の海は違うのだが、表現に形式や様相ばかり求めても……
 海が見える。本当の海が心に映る。
 
 見たことのない海が見える。

 記憶の海馬にない歌が、海が。
 一曲目はサバニだった。何なのだろうか、ライヴの良さは!
 Description, ぼくは消える、漂う、流れる。もう一度、潮干狩りがしたいな。ザワザワと海の音が聞こえる。
 ドゥチュイムニィの、井戸のカエルのイントロだったか、石を井戸に投げ、音が還ってきても、ぼくの魂まで帰ってくるだろうか?
 きっと帰ってくるさ。

 Lumière, sons
  Il faut qu’un plasir,
  Douceur, sourire, encore...

 光、音
 喜びがなければ
 再び、あまやかさ、ほほえみ……

 杉山さんのギターにぼくはいつしかマイルスを意識した。
 マイルスと共に弾いているギターではない、佐渡山さんもマイルスではない。だけど、そこにマイルスが歌い出す、吹き始めるような音があり、風景がある。気づいたら、ぼくはマイルスを夢見た。
 
 テレビでキャスターが結婚指輪を外そうとする。
 ぼくはシャツの腕のボタンをワシャワシャと外した。
 解脱ではない。Le mot discret, je t’aime.
 親密な愛の言葉が湧いてきた。
 伝えるには遠くても、何万キロも離れていても、ツイッターで無視されても、モアノンプリュ、と言われても、ぼくはぼくはの世界を越えて、ジャーマンポテトにシャラップのしゃぶしゃぶエビまで食べていても、まだ愛してるんだ。

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 さて、こんな白昼夢に陥るくらい自分の井戸に沈殿していたことは、もはや批評ではない。
 ぼくはぼくはの世界でもない、共鳴だ。
 ぼくだけの世界ではない。
 Cri!(叫び)、ライヴ、ブルースハープ、パイポーさんのとんぼ返り(ここは意味不明)

 以上で、description, 描写は止めます。最後に詩を。

 


海のような記憶

光は熱を帯びている
 クレメンタインの歌を、ぼくは聴いたことがない
 マイルスの葦笛、
 あまやかなトランペット。
 つんざくではなく、
 響き渡る記憶。
 喜びがなければならない、
 光、輝き、そして音。

 佐渡山さんは皆を招く、
 一人一人が、優越ではないのだ。
 一人一人が全体でもなく、
 でもいっしょなのだ。
 
 帰りの小田急線で
 ぼくはこの詩を書いている
 クレメンタインの歌も
 マイルスも
 かき消えた夜のしあわせに


 

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