2014年3月20日木曜日

李箱の鏡と佐渡山豊の鏡、試論

 
   私が朝鮮文学をあまり読めないのは、それが錐のように鋭く、あまりに文学が発達し過ぎているのではないか、と感じるからである。これは生身で血が出る文学なのだ、というのが、私にノートへの書き出しや、引用を躊躇させる原因である。金時鐘の日本語詩、あるいは金芝河の詩ですら、あまりノートに書いたことはないのに、李箱、そしてこちらは好きなのだが、韓龍雲の詩はもう筆写を赦さない、これはもう本として持っておくしかない。そう感じさせるものがある。朝鮮文学を前にすれば、ドン・キホーテ自体がドン・キホーテであり、遅すぎる、鈍すぎる、何も言っていない、作品ではない、と罵倒したくなる。また、トルストイの長編小説にしてみても、あまりに優雅でその味わいはもう高校時代に封印して、読み直せば、たぶん失望しか感じないのではないだろうか?朝鮮文学は錐のようだ、と感じるが、例えば、以下のようである。

 鏡の中には音がないです
 あんなにまでしづかな世の中はほんたうにないでせう
 鏡のなかでもわたしには耳があります
 わたしのことばを聴き取れないあはれな耳がふたつもあります
 鏡のなかのわたしはぎつちよです
 わたしの握手を受け取ることのできない……握手を知らないぎつちよです
 …                                                
 李箱(イ・サン)「鏡」(一九三三)

 この詩を途中まで引用しただけで、私は書き出すことを断念してしまった。あまりに見え過ぎ、あまりに傷であり、逃げようがないなかを、逃げるとはどういうことか、東京で客死(獄死に近い)した詩人の彷徨が痛ましい。社会は天才なんて厚遇しないのだ。朝鮮文学を読めないのは、あまりに優れ、あまりに独自の音であると感じるからだ。翻訳を通しても、それは日本語にはない音だと思う。
 
先日、友人から以下のメッセージをもらった。

「あなたの写る鏡にも僕らの時代は見えますか
僕らの写る鏡にもあなたの歌が聴こえます」
最近「♪わったー島やうちなーぬ」の前のこの言葉を想ってます。
ここの「僕ら」って「誰」なのか、「あなた」は「誰」なのか
そして、その後から始まるドゥチュイムニィという曲。


これは佐渡山豊さんの歌の一節だ。「鏡」が出てくる。李箱は、鏡のなかには音がない、と喝破した。だから怖いのだ。李箱には希望がない、と私には思える。希望も絶望も虚妄だとしても、絶望の方が遥かに現実に見える。その怖さ。李箱に較べれば、佐渡山さんも、まだ絶望していない、というか。植民地朝鮮のハイブリッド空間、京城の温度、音、歯軋り、やはり怖さ。ぼくはこれ以上引用しない。(未完)

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