2014年3月17日月曜日

佐渡山豊はジャンルに非ず!





 佐渡山豊、フォークに非ず!

元々、地下大学と平井玄さんへの応答として書いた、佐渡山豊さんは、フォークだけじゃないという文章です。

佐渡山豊さんを、フォーク、ロックの枠組みに押し込めてしまうのは、もったいないことだ、というのがぼくの考えです。演歌だけでも、琉歌だけでもない、ラップでもあるだろうし、ちゃんぷるーでありつつ、形式美からの自己表出というか、創造的な音楽です。
 そもそも、自己表出でしかない音楽から形式美を取り払ったら、それこそメルトダウンでしかない。形式美は大事に守りつつ、そこから、クラシックからジャズの世界へどう行くか、その道筋と課題は佐渡山さんにおいては、常にといっていいかわかりませんが、ジャズとして、歌詞も歌うたびに変容するのです。
 そして、ヤマトから押しつけられた、お仕着せの沖縄ではなく、佐渡山豊としての自我、というか、表現が本来の音楽-存在なのであって、沖縄を言い過ぎるのは佐渡山さんご本人にとっても暴力であるとぼくは思います。「無知は暴力である、悔しき暴力である」と友川カズキさんの歌にもありますが、沖縄への無知は暴力としてまず我々を存在させざるをえない、そう思いますね。
 また労働者としても、一級建築士の資格をお持ちで、米軍基地で働いた経験もあり、英検1級もお持ちです。労働者としての適性、生き抜く、プロとしての音楽を封印しても、労働者としての佐渡山さんには、時代を生き抜く覚悟があったと思います。
 非-正規労働、=無能では断じてありませんし、そんなことならぼくはそれこそ「存在」、存在していること、に匙を投げます。もっとも、いくら捨てた気になっても、ついてくるのが命と人生かもしれません。佐渡山さんが歌を一度は断念したのは、ぼくは、ヤマト、沖縄、二重からの佐渡山さんへの暴力、差別があったからではないか、それに押し潰された面もあるのではないか、だからこそ、北海道への「逃避行」もあり、また沖縄への「帰還」もあったのではないか、とぼくは想像します。「お前は沖縄だ!」という暴力に抗して、「さよなら沖縄」というアルバムもあるのかもしれませんし。
 それと最後に、佐渡山さんの「つむじ風」という最新アルバムについてなのですが、これは形式美、「幽玄」(ヤマト古語でいえば)、沖縄の言葉で該当する言葉を知りませんが、「ミルクユ(弥勒世)」なんてくとぅば(言葉)はどうかと思います。それまでの佐渡山豊さんの形式美が表にグッと出てきて、自我、我であることの苦みが凝縮された、佐渡山さん「後期」における金字塔であり、分水嶺であり、旅人にとっては山の尾根、峠の辺りではないか、佐渡山さんは存在の向こう側を見て戻ってきたのか、それとも、向こうに行ってしまうんではないか、という危惧さえ抱かせる、そんな一枚ですね。
 ここでぼくは、「つむじ風」についての2つの文章をリンクでご紹介したいと思います。

一つはルリヲ・フルチくんという沖縄に帰還した青年が書いた「つむじ風」のライナーノート、「8年ぶりのドゥチュイムニイ(独り言)」です。

もう一つは、私が書いた、「つむじ風、佐渡山豊論:Being there. そこにいること。」
という、詩のような文章ですね。

佐渡山さんへのいろんな思いはファンの間でもありますが、ルリヲくんの文章は佐渡山さんの心に響いたものでしょうし、拙文は、私の思いを込めてあります。

ほんのイントロダクションとして、佐渡山豊のご紹介で、今の佐渡山豊も、昔の歌を引っさげただけでなく、常に新たに生成し続け、すごいですよ、というご案内です。


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