2014年2月11日火曜日

『七つの習慣』評

『七つの習慣』という本を、包括的なビジネス社会のイデオロギーとして描き出す能力は自分にはない。
自分はいわゆる先進国にしか足を踏み入れまいとしている人間だし、日本以上の途上国に行く気がないのかもしれない。スーザン・ジョージが第三世界のことをやりながらもっぱら先進国の統計数字と理論を批判的に検討していること、実際、途上国に行ってみないこと、その感覚は自分にもある。
 話が乗っけから少しずれたようだが、自分の考えは『七つの習慣』による世界観がアメリカ発で、世界を席巻し続けていることかもしれない。意識的な日本のサラリーマンに調査というか、意見を聞いたところ、セミナーに出たことがあるとか、コーヴィー(著者)の考案した手帳を使っているという人もいる。
この『七つの習慣』という本、けっこう難しい。「聖典」とするほどの本ではないだろうが、何度か読み返すことも、産業社会で生きて行くには有効だろう。これは、家庭、レジャー、スポーツなども含めた全社会的な意味での産業社会モデルに有効である。
そしてこのイデオロギー装置を爆破するには、あまりに人情に富んだ本であり、産業社会が戦争社会になってもいい、というのでなければ、この産業社会を爆破することなど、考えない方がいい、のかもしれない。
この本は日本という特殊社会では有効な面もある、しかし、中国やヴェトナムではどうだろうか。確かに文明に関係ない普遍であると著者はいう。しかし、普遍こそ普遍でしかない。普遍的価値が死んでも、生きている意味は残る、とフランクリンという医者は言っている。
自分の解釈はこうだ。『七つの習慣』は、箱庭の人情を理解した理論だ。つまり、これは不安を懐柔する自己啓発書なのだ。不安からの解放と生きる意味、生きる理由の探求はまた違うものだろう。
じゃあなんで、生きているのか、産業社会の適応するのか、ということを考えないでいいはずの先進国で、大学生なども自殺が後を絶たない。そのことにコーヴィーが答えてくれる面はあるだろうか?それはまた別の物語なのかもしれない。
豊かさのパラダイムということをコーヴィーは言う。つまり、パイの分配などしなくても、社会はどこまでも発展的に豊かに、仕事もいくらでも創造できる、ということだ。
しかし、意味は発見することはできるが、発明、創ることはできない、とフランクリンはいう。コーヴィーの読者は、コーヴィーを読んでいることを黙っている。というのは、自分のイデオロギーを広めるよりも、攻撃されたくないからではないか?根本的に意味が欠けているのが『七つの習慣』ではないか、これは空虚なサラリーマン生活を送るには役に立つが、人生を生きるにはもっと原典にあたる必要がある。
釈迦の言行録を読んだり、各種古典を読む能力を発揮し、『七つの習慣』とは違うパラダイムでこれを検討する、何度も読む、ということは洗脳されるためではない。
本書は貴重であるからこそ、これに洗脳されず、読み解くことが望ましい。


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