2013年12月30日月曜日

今年の1冊:『朝鮮人強制連行』(外村大・著)



帝国主義の問題をずっと外村大先生(東京大学)は考えていると思う。もちろん、帝国主義というもの自体への批判的視座はあるだろうが、日本の帝国主義が、イギリスやフランスの帝国主義に較べていかに遅れていて、稚拙なものであったか、という視点は先生にある。
 『朝鮮人強制連行』(岩波新書)はそういう日本帝国主義の実務面での稚拙さの証明だろう。
 この稚拙さは、現代日本企業の海外進出にも当然、反映されているはずで、欧米の大手企業との競争力に較べて、日本企業が出遅れている理由の一つにもなっているだろう。
強制連行の本は、日経を読んでいるようなビジネスマンにこそ読んで欲しい、と外村先生は語っていた。


2013年12月8日日曜日

呼応する!ライヴ&トーク 佐渡山豊、山之口貘をうたう

 

 

  感情から始めなければ、「ぼくは分析する」と酔ってルリヲ・フルチ氏は語っていたが、彼ほど直感的な感情の出る文章を書けるのは、分析が知を超えて、あふれ出すからか。
 「おクニは?」と尋ねられ、答えない、はぐらかす山之口貘の詩と、佐渡山さんのドゥチュイムニイ、自らを自らの言語で他者を前に語ること。あくまで日本語話者としての矜持か、それとも「民族」アイデンティティーとしての言語ナショナリズムか、そういった画一的な二項対立を超えて、むしろ山之口貘、佐渡山豊の時代、個性を超えた声に、思いに、耳を直角に傾け、聴かなければならない、そう思って足を運んだ、というのは後付の理由。いつもながら、ただライヴに行ったのだ。
 眞に、音楽愛好家として以上の立場、気分があるとすれば、帰郷、旅路、山之口貘、佐渡山豊、様々な人びとのケース、場合で、両者の詩、歌、生き様はすさまじく美しい、というか、苦しい、楽しい、くる楽しい、なんて造語を作りたくなる。
 
モモガルテンという場の空気、土曜日夕方という時間、中原中也も歩いたという住宅地、中野界隈。詩は詩としてゆっくり読めばいい。まず、歌を聴きたい。
 人の声によって、エクリチュール(書かれたもの)を少し、後に任せて、声に反射した何を聴こうか、再現のない一回性がここにある。
 理論的に精緻な、ふざけろとふざけるなの間の、紙の上の議論、一度、忘れよう。
 使役代名詞と格助詞について教える大学を斜めではないが、周回遅れで出た自分が、固有名と一般言語の詩にならぬ叫びを、私情を交え、進化と深化、ヒト科の傍ら、人生茫洋と、歌を聴く。
 数多の詩人、怒りのドラムデモ、火炎瓶テツ、なんて名前も聞こえてくる昨今。異常事態としての日常。奉り、祀られ、どこにいるの?と隠されて、核開発に横恋慕、カクレンボ、そういう首相と毎日にせわしなく、ウンザリしますね。
 必要がなければ、ライヴもない。
 行きたいから行くのだ。
 ビラ配り、お誘い、一生懸命、躊躇しながらやってみた。 
 でも、気づいた、自分が行きたいから行く。自他共に、これしかない。
 あなたがサラダだからサラダ記念日、ではなくて、サナダ十勇士にピストル握らせ、ランボーのような生き方してみたいな、と語り出す。

 泡盛、「国華」。呑みつつ、語る。そんな夜でした。

注目の投稿

見たことのない海が見える(佐渡山豊、アコパ・ライヴレポート)

   一応、ぼくたちはクラス分けテストを受けている。  それぞれが違う学校にも通ってきた。  いい塾があり、いい学校があり、その先にもいい会社がある。  「つまらない」とぼくは旅に出た。父親の許しを得て。  好きだった恋人とも離れ、「つらいだろう」と父は...