2013年9月30日月曜日

You know me? -照れと不信と挑戦(佐渡山豊論、序論)

 You know me? -照れと不信と挑戦
 
痛みには触れまいと思ったのだ。CDを聴いて、人の痛みに触れるなんて機械仕掛けの感情論じゃないか。詩論ならば言葉だけ、感情はないものというわけではないが、幾分でも感情は薄められるだろう、リズムも音もないわけだから、血液に逆流したりしない。
 ひまわり、という歌に出会ったのはある日のライヴだったが、本格的にこの歌に出会い直したのは、CD録音だった。平板な文字と、刻まれた音ではなく、耳が震えるような体験。あるいはずっと後の録音、「白い狼」、好きな歌だ。佐渡山さんの歌には自分のなかの痛みがないと共振しない何かを感じていた。ひととき、有頂天な気分の時に、あえて聴いてみたこともある。それでもやはり心の振れ幅は変わらなかったように思う。ぼくは感情実験をしているわけではない。ただ楽しい気分のときに聴いたらそれでも心は自然に治まり、粛然とさせる何かがそこには在る。
 ぼくはゆっくり下降していく、別の音楽を聴き始める。音楽はどんなものでも音楽だ。人の痛みを楽器と声で緩めるのに違いがあるはずがない、あるのは、その強度、毒にも薬にもなるというように、治療に難しい心のがさつき、それには特定の音楽がいる。それからもっと緩めてくれるような歌も必要になる。歌の処方箋をDJ任せにせずに、自分でそのとき、そのときで聴いてみる、別に誰でもやっていることだ。いくつもの音楽、幾多の人々のなかに佐渡山さんもいる。卓越など、この人は望んでいないのかもしれない…You know me?、「湯飲み」と茶化したいつかの言葉に、ぼくは佐渡山さんの照れと不信と挑戦を感じ取った。それに気づくには、ずいぶん時間がかかったというか、ある種の妄想を確信にするには、こちらも、照れ、不信はないが、挑戦があった。魂の治療者としての自負、書くということは呪文で書かれる対象の人を救うことでなくてなんだろうか?
 ぼくは何度も、序文を書いては消している、歌論を書く?詩論を書く?ぼくは何を書きたいのだろう、それはこの世界の成り立ちとそこからの治癒、解放でしかないだろう。

 書く、ということはその人の魂の治療者となることだ、賛仰し、崇め奉ることで癒される患者などいるだろうか?書く、という僭越なことには治療者としての自負がいる。無論、無免許でそうするのである。魂には証文も承認もない。これは全ての音楽に通暁する論であり、魂、心、精神の治療であり、だからこそ佐渡山豊論なのだ。佐渡山さんの歌だけを聴くから、佐渡山豊論が書けるのではない。この世の全て、森羅万象に触れるからこそ、佐渡山さんのことがほんの少し分かりかけるのかもしれない。またそれは母を知り、亡き父を知る、という自分自身の治癒にも続いている、そういう論だ。書くなら限定せず、全てを書かなければならない。そう思って論の端緒とする。もう3度目に書いた序文だ。

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