2012年7月30日月曜日

移り住むこと-フランス移民を事例として-(卒論相当論文の改訂)

序 南と北の結びつき
「南北問題」という言葉に象徴されるような貧富の格差は「先進国」と呼ばれる国々においてどのように認識されているだろうか。そしてそれはどのように南へと繋がって行くのか。
個人的な知見が集合的知見を形作るとも限らないが、我々の多くにとって世界とは身の回りの生活圏と、テレビ等のメディアを媒介として得た情報と、出張や旅行といった短期的で限られた体験に過ぎないのではないだろうか。逆に「途上国」と言われる国々の人達がどのように豊かな国を見ているか、自分達を見ているか、分ったものではない。限られた情報をもとに見知らぬ相手をなんとなく想像するだけだろう。
伝間、曖昧なもの、コンビニの小銭を入れる募金箱があり、誰かがどこかで苦しんでいるらしい。
この情報を掘り下げることは書店や図書館を皮切りに分析的に、標本的に近づき得るし、また発展へ向けられた行動様式を備えた様々な援助機関もある。
だが、「結局、南における開発とかグローバル化というのは南の状況を外部の人間が代弁して語ること」であり、そのような我々の言説は「所詮、ある構造化された、「北」の都会からの異物」であり、「ただ、その異物につきあうと金がもらえるかもしれないからつきあいましょう」というアフリカ地域研究者の実感[1]から窺えるようなおそらく事実に相違ない「開発」を問い直さなければならない。


1.1  開発の言説
開発をたんに個々のプロジェクトとするのではなく開発を言説として研究することの重要性が指摘されている。権力をもつ知としての開発の言説は、特定の用語の発明とその使用に基づいた特定の知の形態のみが真理とされる知識の体系である。また、開発の言説はある特定種類の問題を処理することに特化した開発の知識と制度を作り出し、それによって処理可能なかたちで「現実の問題」を設定する。つまり、開発は、規定の処方を施すための問題を現実のなかに「発見」するというレトリックの下に、標的として創造する。問題はあるのではなく、開発をする者の頭のなかにあるものがそこにあれば、あるとされるのだといえる。
また開発機関や開発の専門家によって「合理的開発計画」が作成され、それが現実に結果を生まなかったことに対して、まるで実験室ではうまくいったのにという科学者のような態度には結果に対する責任がなく、自分の立案に合わないような現実の方にこそ失敗の原因があるという無責任な態度が普通である。[2]
開発批判を一貫したライフワークとして展開してきた人として、スーザン・ジョージの業績はめざましい。だがここではその意を汲み尽くすことはかなわないので、同じく開発批判の舌鋒鋭いセルジュ・ラトゥシュの文章[3]からその一端をかいまみたい。
開発は世界の西洋化の幻影であるというのがその一貫した主張であるが、想像し得る解決法は市場的でない経済であるという。[4]反対に今の開発は市場主義そのものである。
現在、アフリカなどの若い諸国家では「開発主義」こそ唯―エリート達を政権に結びつけるものである。それらの諸国では開発を無視することも達成することもできないという矛盾の内にある。またエコロジーの観点からも世界中がアメリカになることはできない、発展は普遍主義ではないのである。
それでも国家経済の発展は自然に経済のトランスナショナル化、市場のグローバル化へと向かわねばならない。そして「南」のためだけの理論がある余地はない。唯―の変化といえば、トリクルダウン効果という幻想がなくなったことくらいである。国連開発計画によれば1950年以来世界の富は6倍に達したが、174国のうち100国の平均所得は減少している。世界で最も富める者3人が貧しい国48国分の富を手中にしているなど、マクロ的な数字には事欠かない。
「想像的植民地化」という言葉をラトゥッシュは使う。開発が植民地化の他の方法であるとすればグローバル化は開発の他の形である。「構造調整」ということばを道具として使いながら「発展、化学、技術」といった標語と方向付けによる想像的植民地化によって、世界の西洋化が進められている。
「自己中心的」「内発的」「参加型」「コミュニティ的」「統合的」な開発が言われてきたが、地域開発、ミクロ開発、内発的開発、民族開発さえ言われてこなかった。技術-経済的メガマシーンには、救済はなく、「顔」さえ見えないという一般的な答えのもとに機能している。
また、このような経済戦争は先進国フランスにおいても起こり、1945年から80年にかけて農業の近代化が進められた。田舎の機械化、集中化、産業化に参加し、農民の債務負担、農薬のシステム的使用、「悪い食い物(malbouffe)」の一般化を助長してきた。
開発が今ある開発でしかなく他の何でもないということを気づくのにまたさらに40年も待たなければならないのかとラトゥッシュは嘆く。「持続的な開発」というのは字面とは反対に、恐ろしく絶望的だ。
以上のような議論は開発不要論と位置付けられると思うがその真贋を見極めるのはまだ先のことに思えるので開発の言説に言及するのはここでやめる。今後の課題としたい。

1. 2 発展のアクターの模索

「援助」のアクターは国家機関、国際機関、NGO、また、「新たな多国籍組織である国際的な非国家機関(なかでも多国籍企業や世界的宗教団体が)の果たす国内開発における重要な役割に気づくようになった」[5]
誰が開発のアクターであり、誰が受益者なのか。アフリカを論じる際、国民・国家という国の存在を前提として各国政府をアクターに仕立て上げるが、旧植民地国家が宗主国の利益に合わせて、領域内での治安と徴税には熱心であつたが、医療や教育の社会コストはキリスト教のミッションにしばしば任せてきたということを受け、独立後のアフリカ国家には社会政策を担い得る力がなく都市一部、エリート、軍人にしか及ばないものとなっている。[6]
また仮に地方分権化がうまく機能し、アクター自身が受益者として参加あるいは動員され行動するにあたっても、その一単位は個人、家族にはじまり地域、国家と拡大していくにつれ、生み出されるべき利益と共に受益者は曖昧模糊になるのではないか。
このような規模の拡大のなかでIMFのような国際的かつ遠方の機関では、「計画は通常ワシントンが立案し、短期間の視察を経て最終決定される。視察するスタッフは首都の快適な五つ星ホテルに泊まりながら、財務省や中央銀行で統計を調べるだけである」[7]
このような有様ではアクターとその対象者の結びつきは遠く、統計のなかにあらゆる要素が埋没しているかのようでありながら、実は何も扱っていないとも見える。ビューロクラシー(官僚機構)が発展を妨げているのか、機能的にしているのかという議論も存在し、[8]
途上国のなかに他にどのようなアクターが存在しているのか探ることも方法論に先立つものとして重要であろう。
例えば、セネガルにはムリッド教団というイスラム教の集団が、かつての植民地政府下で落花生生産で成果を挙げ、独立後も政府と協調して教団が重要な役害を担っているとされる。[9]
セネガルでも政教分離が政府に掲げられていることはフランスの影響、また近代国家の要請からもあるかもしれないが、そのような政治的「外見」から見落とされることは少なくないに違いない。[10]
また、新たな主体的権力の創出を生み出すパワーがあるのは、かつてフランツ・ファノンが農村に植民地支配への暴力的抵抗があることから見ていたような革命性は、現在は見られず、買収工作が簡単なうえ暴力的な蜂起が起きても都市部との距離があるために道路を塞がれたら終わってしまうという。それに対して都市郊外に滞留する、農村と都市を行き来する者、あるいは他国からの移民はその日常的な公共的なことがらへの議論から社会運動へとアクセスし易いという。[11]


l.3  移民一出身国発展との関係
1974年、フランスにおける移民労働の停止、国境の閉鎖に伴い、90年代頃から国境管理に代わって移民の流れを管理することが言われ始めた。
それを受け、19984月に、共同発展と国際移民に関する政府間委員会が設立され、移民送り出し国と共同で、送出国の発展及びそこからの移民の管理が目され、そのことによって可能な形での出身国への帰還、また帰国のための組合を設けることが求められた。政府間会議の代表であるサミ=ナイールは「急速な発展と民主化が多数の移民の帰国には欠かせない」と語っている。
しかし、貧しさこそが移民現象の決定的な原因であるかというと、それは疑問であり。一考の余地がある。
それは、移民の送り出しに多額の資金が必要であること、また、早魃と相次ぐ飢饉に見舞われる国(スーダン)、内戦がある国(ルワンダ、リベリア)といつた人口流出の機会が多い国からの移民が決してフランス、またヨーロッパに向けて多くはないことからも一概に言うことはできない。(1990年の統計に依れば、サブサハラ地域への5000万人の移民、難民のうちわずか20万人だけがフランスに向かつている。)
また、送出国の家族内また地域において、グループ内の人間を送りだし、労働する側の国においても受け入れ体制が出来上がっている必要があり、そのような地域、グループは送出国では、比較的豊かであるといえる。

1.4  農村一移民
そこで、なかでも農業労働に依存した農村地域が移民統制のカギを握っているといわれている。家族の中での配慮を求められる移民は、家族の掟のなかでやがて、帰ってくるものと考えられ、[12]社会的な再生産のためにもその人間構成を維持する必要があり、大勢の人口流出は望ましくないとされる。
また移民労働によって得られる収入は、当初、主である農業生産による収入を補足するものとして考えられている一方で、他方、貨幣経済への移行が進むにつれ次第に移民による送金は恒常的なものとしてとらえられ、依存が高まるので、内発的な発展への意欲が損なわれるともいわれる。[13]
また、政府レベルでも、移民による送金がその国の経済を支えている以上、移民の取り締まりは援助欲しさの受入国ヘの合意と移民の「見逃し」との間の二枚舌とならざるを得ないのではないだろうか。

以上のような点に留意した上で発展のアクターとしての移民はどのようなものであり得るか考察してみたい。
現在、国家による手筈には二つの軸があり、それは帰国の援助と、マリ、セネガルで見られような、個人の零細企業への投資がある。これらふたつのことがらに即し、年に数百の人がなんらかの補助金の給付を受け帰国することを申請している。
しかし、規制化に関する仏上院アンケート委員会の声明では「このプログラムは一貫した配慮、また個人単位であることへの要求があるため、大量の対応には適していない」といわれ、当初目的としたような成果を挙げていない。
このような政策に対する反応が鈍いひとつの理由として、この取り決めが国家間の「共同的な発展」という枠組みにとどまったものであり、交渉相手は出身国国家とされ、発展の地方におけるアクターである移民自身の経験、行動というものを無視した形であることがいえるだろう。
また他方で、移民による出身国への送金は非公式なものを含め、家族の消費を賄うものであることは知られている。それと共に個人的な投資、首都における賃貸、商業を目的とした土地購入などにも当てられる。
その上、このような移民は出身国への帰還を決定するよりも、出身国と居留国の間を行き来することを選択し、送出国にいる家族はこのようにして得た収入を村、地域の発展に役立てている。このような移民送出活動を先駆的に行ったのはマリ人、セネガル人、モーリタニア人などであるが、ハイチ、モロッコなどにおいても長い年月に渡って形成されてきた。
また送出コミュニティの具体的発展として、移民労働収益によって出身地である地方にモスク、学校や無料診療所を建てるなど、効果は多様であり、さまざまな障害を乗り越えるのに役立ってきた。あるいはセネガルの事例では地方における厳しい序列関係を超える形で新しいアソシエーションを運営することで、女性や子供が新たに責任を担うような社会的発展もみられた。移民はこのような「遠くからのプロジェクト」によって社会変革の推進力となっている。
他方で、受け入れ国(フランス)の側での統合モデルによればこのような「発展主義者」である移民は、やがて帰国する望みを抱いている者として見られるが、このような移民社会のダイナミズムを全く無視したモデルを廃し、二つの場所での潜在的に共通な市民権というものを創出して行くことも必要になってくる。[14]このことを次章で考察したい。




 移民の二重性:「北にある南北問題」あるいは、「ここにいる誰か」

本章では前章とは少し異なり、発展への「間接的」なアクターとして、言ってみれば、主に先進国(移民受け入れ国)へ向けてのメディアとしての移民を、様々な側面で考察してみたい。
移民の実態を知らせるメディアとして役立ち得るものは多種多様であり、時にはマニフェスタシオン(デモ、表明)という形で移民自らが人々の現前に現れること自体が、最も直接的なメディアとして人々に焼きつくであろう。
 このような人々の有様を「エスニック・メディア」と町村[15]は呼んでいる。

「エスニック・メディアとは、祖国にあるはずのエスニック文化を遠い異国において、単純に模倣するノスタルジックな試みではない。…そうではなくエスニック・メディアとはどんなに些細な形であれ、作り手、受けて、スポンサーなど利害の異なる主体の間で新しい文化を創造し境界を引き直そうとするダイナミックな相互作用の試みである。…」
 
「エスニック・メディア」という用語の定義は以上のようなものと大体理解した上で、それと併せて、自身も移民の流れを汲むアブデルマリク・サヤド(社会学者)の著作[16]などを下敷きに考察したい。しかし現時点では、サヤドの著作を厳密に分析するのは筆者の能力を超える。
そこでここでは、筆者自身の見聞、体験を交えながら移民自身の語る移民の実像に迫ってみたい。

2.1  「北にある南北問題」?移民の見せる世界のあり方
先だって、「ただたんに移民がいる」ということについての筆者の感想をフランスと、フランスの極右政党に「日本のようになれ」といわれる日本との間の差異を述べておきたい。
「最近、高田の馬場あたりの山手線は中国人の人多いよねえ、」という声を雑踏に聞くのと、パリと郊外を結ぶサン・ラザール駅の雑踏にいるのとでは、移民の「密度」の違いがその問題の質さえ変えているように思える。
.
日本とフランスのこれまでの移民を巡る歴史、状況、政策、意識が違うのだろうが、移民の「密度」が高いことはどういうことを示唆しているのか?
移民が必ずしも受容国において貧困であるわけではないだろうが、一つには「どこかよそにある貧困」ではないものとして、スーザン・ジョージが「第三世界」の債務が先進国に跳ね返ることを警告した「債務ブーメラン」という表現に見られるような、第三世界への密接な問題意識を投げかけるブーメランとしての役割を果たしてはいないだろうか。簡単に言えば、世界の貧しさ、悲惨さへの目を開く契機ともなっているのではないだろうか?
それは、かつての植民地支配、第二次大戦後の高度成長をもたらした安価な労働力として移民を受け入れてきたこと、また過去の大戦でもアフリカの人々を自国の兵士として動員し、世界の各戦線へと送り込んだという歴史によって移民受容を考察することにもなるだろう。
また移民の入国が制御されるに伴い、滞在許可が下りていない不法移民が起こした、1996年のサン・パピエ運動においては教会を占拠した人々が「危険な分子」としてではなく、母であり子である人々としてテレビに映し出されたことによって、フランス市民が、同じ人間である人達を今ここで引き受けることも可能になった。[17]
あるいは極右政党の「躍進」に対してリセの学生が級友の移民子弟のためにデモを行うとき、社会的立場を越えて、心情的には差異は姿を消すだろう。選挙権を未だ持たない者達の「公民的不服従」[18]によって、移民は「南」を見せると共に「南」でもなくなり潜在的フランス市民となる。
「たんに迫害の犠牲者として姿を見せることをやめ、民主主義の当事者」として「抵抗と想像力によって民主主義政治に再び生命を与える」 役割、たんに「遠くの貧しさを知らせる存在」としてではなく、意志を含んだ役割が我々の眼前に現れる。

2.2  「ここにいる誰か」移民の固有性
移民として来た人にあえて、アフリカ、母国との関係を聞くことは時には無作法である時があると筆者は感じていた。移民と出身国との結びつきというのはそれほど固定化され、本人が語るのに躊躇なきものともいえないのではないか。このことを考えて見るために移民に焦点を当てたある映画に沿って話を進めたい。
なかでも『L’AFRANCE[19]という映画を他のエスニック・メディアの作品の中から選びここで取り上げたいのは、フランス移民の持つ側面を多角的に取り上げるのに適していると思うからである。
映画の内容と、製作者側が観客に呼びかける議論の日程などを告知するためのホームペ
=ジを手がかりに記憶に焼きついたものをたどってみたい。

主人公はエル・ハジというパリで歴史を学ぶ学生である。彼はセネガルから来たのであり、やがてセネガルに帰り母国の発展に貢献することは義務であると感じている。
しかし、滞在許可証の更新期限の手違いから突然、捕縛され収監されたことからセネガル人である自分を突きつけられ、民族の歴史を自己の記憶と錯乱しながら、セネガルに帰るべきか自間する。
映画を撮った監督自身はセネガル人の父とフランス人の母を持ち、フランスで生まれ暮らしてきた。
製作者(監督)は「白人の国にいる黒人の映画を撮りたかつたのではな」く、「西洋においてほとんど排除され、西洋の国に入り、留まるために闘い疲れ果てている多くのアフリカ人を見るのに疲れていた。私は帰るために自己と格闘する人物を欲した、私がたくさん見てきたような」と、語る。
「エル・ハジはセネガル人の学生である。多くの者達のように自分の国がかつての征服国と張り合えるようになるだけの方法を捜しに国を去った。最初のパラドックスは征服した者の地で自らを解放するために方法を学ぶこと。彼が学ぼうとすることは忘れようとするべきなのか?

彼は農村からの出稼ぎ労働者として渡仏したわけではない。サン・パピエ運動に参加した人々のなかでも本を出版したジブリル・シセは母国での教育過程で優秀な成績を収め、ドイツでのドイツ語教師となるための留学経験を持つ移民のなかでもエリートの部類である。パリの南端にあるCité Universitaireという学生住宅群には各国の留学生のために別々の棟があり、「モロッコの家」「日本の家」というような名前がそれぞれついている。映画のなかのエル・ハジはそこで他のセネガル人やブラックアフリカ、西アフリカの人々と暮らしていた。その敷地内には公園がありアルジェリア、モロッコといったアラブ圏の国々から来た人々とも自然に触れ合う。なかには、エッフェル塔の袂で観光客に塔のキーホルダーを売り歩く者などを含め、多くの者が帰ることを忘れて生きているように描写される。

ところが滞在許可証の期限切れの問題で、そのような日常的なパリのひとつの空間であるシテ島、警察署の地下に収容されることからフランスでの生活は一変する。収監へと移送される車中、いつもと変わらぬパリの風景が違う意味を持ち始める。
やがて彼は故郷へと帰ることへの自間に憑かれ、ビル建設現場で働き単純労働者としての移民の歴史を反復しながらそこにいる人々と対話し、一度は故郷へと帰ろうとしたことのある人とも言葉を交わす。
そこでは二重の阻害の経験、つまり、今現在フランスで疎外感を感じていると共に、帰国してもフランスから来た者への視線がいつまでも付きまとうことに苛まれ始めた彼は、セネガルの家族にエッフェル塔のレプリカを箱に詰め込んで送りつけるなど錯乱を深め、フランス人の恋人(帰らない理由のひとつ)との間でも衝突を繰り返す。
おそらく解体工としての労働の場でもある廃屋ビルの屋上から飛び降りるべきか、自死の危険を冒した後にようやく彼はフランスに留まることを決め、そのことを話しにセネガルに帰る。
それを迎えた彼の父は、父自身がかつて農村から都市へと流れ、全てが変わっていたように、フランスに移り住むことへの理解を示すところで映画は終わる。

「新しい人間として生まれ変わるために自分に課していた企てを果たすことができないことが分った時、違う自分になってしまったことをどうやって認めればいいのか?自らを裏切り、軽蔑するということを、全く考えもしないことを望んでいた者のdeuil(痛み)をどうすればいいのか?」
 と、監督はホームページ上で呼びかけている。それが映画の主要なテーマでもあるだろう。
このような、移民送出国の「発展」という大きな政府間の枠組みにとても、収まり切らないような移民自身の生活、葛藤、苦悩を考えに当然入れなければならないだろう。

「これはマニフェストではない。」と製作者は語る。「これは様々な問いを開くものであり、答えようなどとは夢にも思わない。これは映画を撮りたいという要求であり、政治でも社会学でもなく、感情なのだ。」

また他方、サン・パピエ運動においても、セネガルの大統領が「二国間援助が増えれば彼らを受け入れ戻す」[20]と、受け答えたような短絡的な解決は受け入れがたく、ヨーロッパにいるアフリカ人の間題はアフリカと切り離して考えるべきだ(傍点筆者)と主張されている。「我々は家畜のように取り扱われ、反抗することなく侮辱され、我々を管理するような行政措置を懇願するのを拒む」[21]という言葉に表れている怒りが社会運動へと発展したのがサン・パピエ運動だと言えるだろう。

2.3  眼差しにさらされる「世界の縮図」あるいは「飛び地」としての移民
新たな反同時多発テロ体制のなかで移民の置かれる状況には変化がある。それはたんに移民のみにとって重大事ということではないだろう、確かにアメリカではケバブ屋が星条旗を身にまとって商売に臨んでも売り上げが落ちたことが報道されたり、移民に新たに付与される市民権の数が減らされたり、移民にとつてこそ重要である事項も多いのであるが。
同時多発テロに関しては、あまりに多くの言説があり、どうやって切り出すべきかさえ躊躇されるが、最近イグナシオ・ラモネがルモンド・ディプロマティクに載せた「社会的戦争」[22]という論文によっていくらかこの問題を論じる端緒としたい。

2001年の911日以来、恐ろしい事件を巡るメディアの報道は膨大であり、一週間とさえ血が流れないことはないとかのように世界各地で凶事が起こるが、そのような印象は間違えであるとラモネはいう。メディアの報道とその内容にも関わらず、政治暴力が今日ほど弱体化したことはない。25年、30年前の様子と比べれば武装戦闘による過激抵抗グループのほとんどは姿を消した。メディアの映像の前での行動は劇的であるが、武装政治闘争が稀になったという本質は変わらない。
他方で「リベラル」なグローバリゼーションという経済的暴力として暴力はその姿を表し、かつてないほど貧困層は貧しくなったにも関わらず、反対にかつてなかったほど抵抗が少ないというのは我々の時代の大きな矛盾である。
社会的抵抗の国際的な原動力であったマルクス主義への嫌悪から世界はある種の移行期にあり、「不正義」が過去にもましてスキャンダル化されている。そのようななかで抵抗は犯罪、安全破壊といった原初的な抵抗へと姿を変える。
ラモネの象徴的な言い方によれば、30年前のラテンアメリカなどの地域では、拳銃を見つけた若者は社会変革を企てる武装組織に身を投じていたが、今の若者は拳銃を手にするとまず自分のことを考え、自分は支配者の押しつけた社会契約による被害者であると感じ、銀行、商店などを襲撃する。
社会的抑圧への抵抗の衰退化として見られるこのような犯罪は原初的なマニフェスタシオン、時代遅れな社会的アジテーションであり、貧しい者達の世界の不正義に対する激昂を表しているに過ぎず、未だ政治的暴力として力を持ち得ていない。

以上のようなラモネのいうところを筆者が、9.11当時パリにいて見聞したことをいくらか次節で紹介したい。

2.4  草サッカーという日常の崩壊
9.11以前から筆者は大学寄宿舎近辺で週末、草サッカーをして遊んでいた。
そこでいっしょに遊んでいたアルジェリア系の人たちのなかで事件後の土曜日、急に殺気だつ人がいたり、いつもと変わらぬ軽口がブッシュ大統領を茶化すものとなったり、いくつかの異変が見られた。
同じく移民とはいえアラブ系のルーツでないブラックアフリカの人が、足を蹴っただのと当り散らされて結局、喧嘩別れのようになってしまった時も「一部の人がめちゃくちゃにした」という、アルカイダを語るテレビの言説をなぞるような非難が聞かれた。和やかな週末が9.11以後、なくなってしまったことに筆者も少なからず衝撃を受けた。
「フランスはアルジェリアを1世紀以上植民地にしていたから、しゃべる時もアラブ語とフランス語は分けられない」という苛立ちのことばを聞いたのも、そのような時であった。           

それよりも以前にテレビのニュースで、アルジェリア国内での民族紛争に端を発したアルジェの暴動が伝えられた時は、白いTシャツにALGERIAと黒いマジックで書いたのを着て特に何を言うわけでもなくサッカーをしにきていた人がいた。そのような目に見えるものからわずかに彼らの思いを推し量ることができるだろうか。
アメリカでアラブの名のもとにテロが起こったからといって、自分達がテレビを通した眼差しでことさらに「同一の者」と見られるのはいらだたしいことに違いない。世界は安易に結びつきアラブ人はアラブ人にされ、またテロ自体がKAMIKAZEと新聞で書かれ続けたのは、日本人としては、はた迷惑な気分であった。
さらにまたサッカーに関連して、9.11以後に行われた、アルジェリア戦争勃発以来初めてのアルジェリア対フランスのナショナルチームの試合が、試合中にアルジェリア国旗を持ってグラウンドに乱入し駆け回った観客によって中断中止されたこともあった。
この試合に先立ち、アルジェリア系移民のジダンのアルジェリアに住む親族のインタビューをニュースで流すなど、穏便な和解としての親善試合が目されているように思えた。   
 この「乱入事件」は筆者の見るところ、感極まったアルジェリアサポーターの突発的な行動に見えたが、それをメディアはほほえましいとは受け取らず、弾劾者を含めた討論番組を放送し、旗を振って走った人々のこの問題はやがて司法に委ねられることとなった。

数多くの移民からなるフランスナショナルチームは1998年、フランスで開催されたワールドカップの折も一方で、極右政党の反発を誘ったが、他方では優勝という栄華によって民族を超えた一体感というしばしの幸福をも充分に演出してきた。
フランス代表チームは移民問題を可視化させ中心へと誘う最も重要なメディアのひとつであると筆者も考える。また、貧困や社会的疎外から問題を起こしやすい郊外の若者に対する影響力は大きい。暴力をスポーツヘと昇華し、社会性に結びつけて行くこと、また郊外の若者出身の選手がナショナルチームに晴れて選ばれて行くのは社会更生への呼びかけともなり得るという言説は幾度も反復されている。

 終わりに
以上若干述べたように移民問題は、どこからでも火がつくようであり、それは移民に直接関係がないことも容易に「移民問題」と結びつけて反発を買うものである。
このような移民を巡る困難な状況を引き続き注視することを確認し、本稿を閉じたい。

 




[1]勝俣誠、「世界の中のアフリカ」(現代思想「グローバリゼーション」,1999.11、青土社)
[2]Ibid.古屋嘉章、「すばらしき開発の言説」
[3] Serge Latouche, Les Mirages de l’occidentalisation du monde- En finir une fois pour toutes , avec le dévelopment, Mai 2001, Le Monde Diplomatique
[4]このことはアフリカ地域研究の成果とともに納得し得る気持ちが筆者にはある。公務員が庭で芋を育てているといつたインフォーマルな側面が生存維持に役立つことなどを念頭に。勝俣誠、「世界の中のアフリカ」(現代思想「グローバリゼーション」,1999.11、青土社)
[5] マイロン・ウェイナー、「移民と難民の国際政治学」(内藤嘉昭訳)1999、明石書店
[6] 勝俣誠「アフリカの『難民』」、(現代思想「難民とは誰か」,2002.11、青土社)
[7] スティグリッツ、「世界を不幸にしたグローバリズムの正体」(鈴木主税訳)2002、徳間
書店

[8] 「社会現象はきわめて複雑であるから、任意の命題を論証するために、実例や個々の統計
資料を好きな量だけいつでも探し出すことができる」 (レーニン「帝国主義」)

[9] 一例として、Mark turner &David Hulme, Bureaucracy: Obstructing or Facilitating Development? (Governance, Administration and Development),1997, Kumarian Press
[10] NHK「アフリカ」プロジェクト、「アフリカ21世紀―内戦境・隔離の果てに」2002NHK出版
[11] 勝俣誠、「世界の中のアフリカ」(現代思想「グローバリゼーション」,1999.11、青土社) 
[12]村への忠誠心を試す試験台として移民労働があるという側面もあるようである。(p.61, Abdelmalek Sayad, La double absence- Des illusions de l’émigré aux souffrances de l’immigré,1999, Seuil

[13]筆者は移民によって、送出国コミュニティの「開発」のあり方に積極的な変容、新たな提案があるのではないかと期待も持っているが、洞察が足りないかもしれない。
[14] Christophe Daum, Migrations, liens au pays d’origine et development(Philippe Dewitte ed. Immigration et Intégration, L’état de savoirs, 1999, La Découverte) (参考文献の一例として)
[15] 町村敬志『越境者たちのロスアンジェルス』1999, 平凡社
[16] Abdelmalek Sayad, La double absence- Des illusions de l’émigré aux souffrances de l’immigré,1999, Seuil
[17]警察の突入によって教会を追われた彼らは調停に乗り出した知識人グループによって大学に身を寄せることを提案されたが、いくらかの安全と共にその中に開ざされるよりは一般の人々に目の届く所にいることを選んだ(Madjiguene Cisse, Parole de sans-papiers, 1999, La dispute)

[18] エティエンヌ・バリバール「市民権の哲学」(松葉祥―訳)2000、青土社

[19] Alain Gomis, L’Afrance, 2001
[20] L’humanité(新聞), 8.26,1996 (出典詳細不明)
[21] Madjiguene Cisse, Parole de sans-papiers, 1999, La dispute
[22] P.1, Le Monde Diplomatique, Novembre 2002

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